丸一日ベッドから出られない日が続くと、立ち上がった瞬間に足元がふらつく。風邪でも入院でも、経験した人は多いはずだ。実はあの「寝て、弱る」感覚を研究室でわざと起こし、しかも宇宙飛行士の体に起きる衰えとそっくりに再現する方法がある。人を水に浮かべるのだ。
水に5日浮かぶと、体は宇宙を体験しはじめる
ヨーロッパ宇宙機関(ESA)が、フランス・トゥールーズのMEDESという宇宙医学の施設で続けている実験がある。「ドライイマージョン」と呼ばれる手法だ。浴槽のような容器に水を張り、その上に大きな防水シートをかける。被験者はそのシートの上に横たわる。
体はシートごと水に沈み、水にぐるりと包まれる。けれど防水シートのおかげで濡れない。だから「ドライ(乾いた)イマージョン(水に浸すこと)」という名前がついている。
面白いのはここからだ。水に均等に支えられた体は、どこにも「床」を感じなくなる。ESAはこの状態を「支えのなさ」と表現している。ベッドに寝ているときに背中が感じる圧力すら、ほとんど消えてしまう。
これが、宇宙飛行士が国際宇宙ステーション(ISS)で味わう浮遊感に近いのだという。
ESAが2021年に始めたこの研究には、VIVALDI という名前がついている。最初の回では女性20人が、1人あたり5日間、ほぼ24時間を水の中で過ごした。眠るのも食事も採血も、基本は浮いたまま。2025年初めの3回目では、男性10人が10日間浮かんだ。
ちなみに最初の回を女性だけで組んだのには理由がある。ESAによれば、女性の体のデータがこれまでほとんど無かったからだ。この回は、欧州では初となる女性のみのドライイマージョンだったという。
ここで少し想像してみてほしい。もしあなたがこの水槽に入ったら、朝7時にまず尿と血液を採られる。シャワーを浴びるときも、別の検査へ移るときも、ずっと仰向けのまま。寝返りの自由すら、ほとんどない日々が続く。
体は「使わない機能」を容赦なく捨てる
なぜわざわざ人を水に浮かべるのか。答えは、体の正直さにある。
重力の下で暮らす私たちの体は、立つ・歩く・姿勢を保つために、骨と筋肉を毎日使っている。ところが支えが消えてその仕事がなくなると、体は「もう要らない」と判断する。ESAによれば、無重力では宇宙飛行士の筋肉と骨の密度が落ちる。体液は頭のほうへ移動し、視覚にも変化が出るという。
体液が上半身へ上ると、顔はむくんでパンパンになり、脚は逆に細くなる。宇宙飛行士の写真で顔が丸く見えるのは、気のせいではない。ドライイマージョンでも、同じ方向の変化が始まる。骨と筋肉は使われないぶんだけ手放され、体液は足から上半身、そして頭へと上っていく。
体にしてみれば、合理的な節約なのだろう。使わない骨や筋肉を維持するだけでもエネルギーはいる。だから重力という負荷が消えた途端、体は迷わず店じまいを始める。
白状すると、体がこれほど素直に機能を捨てにかかるとは思っていなかった。
この体液の移動が、なかなかの曲者だ。ESAの実験では、被験者を水槽の外に出すときも仰向けのままにする。しかも頭を水平より6度だけ下げた姿勢を保たせる。体液が足に戻りすぎないようにするためだ。
6度と言われてもピンとこない。でも長さ2メートルのベッドで考えると、頭側が足側より20センチほど低い程度の、ごくわずかな傾きでしかない。それでも体はちゃんと反応する。
なぜ、ただベッドで寝るだけでは足りないのか
ここで当然の疑問がわく。体を弱らせたいなら、ただ長く寝かせればいいのでは?
実際、ESAはもう一つの方法も使っている。「ベッドレスト」だ。被験者は、頭を水平より6度下げたベッドに寝続ける。しかもルールが厳しい。食事もシャワーもトイレも、常にどちらかの肩をベッドにつけたままと決められている。このベッドレスト研究には、1回で60日間続くものもある。
60日。2か月、肩をベッドから離さずに暮らす。
ではなぜ、5日や10日で済むドライイマージョンもわざわざ別に行うのか。鍵は「支えのなさ」の徹底度にある。ベッドに寝ていても、背中やお尻はマットレスに触れ、そこに体重がかかる。体はまだ「床」を感じている。
一方、水に包まれたドライイマージョンでは、その接触圧すらほぼ消える。だから体液の移動や体の衰えが、より速く、より強く現れるのだという。短い日数で宇宙に近い状態を作れる。そのぶん被験者の負担も実験の期間も抑えられる。
弱らせて終わり、ではない
勘違いしてはいけないのは、実験の目的が体を弱らせること自体ではない点だ。弱っていく体を、どうすれば食い止められるかを探すのが本題である。
ESAのベッドレスト研究には、人工重力を作る遠心機(回転して遠心力で重力の代わりを生む装置)が組み込まれている。被験者を回転させ、体に擬似的な重力をかけるのだ。さらにその遠心機には運動マシンも載せる。「回転しながら運動する」「ただ回転するだけ」「何もしない対照群」を比べるという。
どの組み合わせが、骨と筋肉の衰えをいちばん抑えてくれるのか。それを一つずつ切り分けている。
この遠心機の実験は、2か所で計画されている。トゥールーズのMEDESと、スロベニアのJožef Stefan研究所で、それぞれ60日間の形だ。過去には、ドイツ・ケルンのDLR(ドイツ航空宇宙センター)でも同じ研究が重ねられてきた。「:envihab」という専用施設だ。弱らせる技術と、守る技術。その両方を同じ場所で磨いている。
同じ知見が、病院のベッドの上で効く
ここが、この話のいちばん面白いところだ。宇宙飛行士のための研究が、宇宙に一生行かない人の役に立つ。
考えてみれば、当たり前かもしれない。手術のあと、骨折のあと、重い病気で何週間もベッドから出られない人の体には、宇宙飛行士とよく似た衰えが起きている。使われない骨は細り、筋肉は落ち、体液のバランスは崩れる。寝たきりが長引いた人が、いざ立とうとしてもすぐに立てないのは、そのためだ。
ESAは、この研究の成果が「長く動けない人や高齢の患者」の役に立つ可能性があると説明している。どんな運動や刺激が衰えを食い止めるのか。宇宙で得たそのデータは、そのまま病院のリハビリの設計図になりうる。
考えてみると、宇宙に行ける人は世界でまだ数百人ほどしかいない。けれど、入院や加齢でベッドから動けなくなる人は、その何千倍もいる。宇宙飛行士のために磨かれたこの知識が、結局いちばん多く救うのは、地上で寝込む私たちのほうかもしれない。
宇宙飛行士を守るために積み上げた知識がある。「どうすれば寝たきりで衰えないか」という知識だ。それはそっくりそのまま、地上で寝たきりになった人を立ち上がらせるための知識でもある。向かう先は正反対でも、問いはひとつだ。
ベッドの上は、いちばん近い宇宙かもしれない
病室のベッドと、水に浮かぶ宇宙飛行士。遠く離れて見えるこの二つは、たった一つの問いでつながっている。体は、使われないとどれだけ速く衰えて、どうすれば引き止められるのか。
次にあなたが数日寝込んで、立ち上がった瞬間に足元がふらついたら、少しだけ思い出してほしい。その小さなふらつきの延長線上に、フランスの水槽で5日間浮かぶ被験者がいて、ISSで静かに骨を減らしていく宇宙飛行士がいる。同じ体が、同じ理由で、同じように弱っているのだ。