国際宇宙ステーションで誰かが泣いたとする。涙は頬を伝わない。目のまわりにじわじわと溜まって、だんだん大きな水の玉になり、顔に貼りついたまま揺れている。

こぼれないのだ。落ちる先がないから。

地上では「水は下に落ちる」のが当たり前すぎて、誰も疑わない。ところが重力が消えたとたん、その当たり前がまるごと通用しなくなる。涙も、飲み水も、体を洗う水も、全部ふるまいが変わる。

水が「落ちる」のをやめる世界

地上でコップを傾ければ水は流れ落ちる。これは重力が水を下へ引っぱっているからだ。無重力では、その引っぱる力がほとんど働かない。

すると前に出てくるのが表面張力だ。水の分子どうしが引き合って、できるだけ表面積の小さい形、つまり球になろうとする力である。

地上では重力に押しつぶされて目立たないこの力が、無重力では主役になる。だから水は丸い玉になって、ぷかぷか漂う。コップに注いでも器の底にたまらず、縁からふくらんで浮かび上がってしまう。

地上では水はコップから落ちるが、無重力では表面張力で球になって漂う

NASA の宇宙飛行士は、体をすすいだ水について「水は玉になるので、表面張力が体にくっつくのを助けてくれる」と説明している。水が逃げずに肌に貼りつく、というわけだ。

妙な話だが、地上なら厄介者の表面張力が、宇宙では頼れる相棒になる。ここを押さえておくと、この先の「飲む・洗う・泣く」が全部つながってくる。

飲み水はコップに注げない

まず、飲むところからして違う。コップに水を注いでも、玉になって浮かび上がるだけで口に届かない。だから宇宙では、水は密閉されたパウチ(袋)に入れ、ストローで吸い出す。

飲み物の多くは、最初は粉末だ。NASA の資料によれば、飲料は粉末の状態で一方弁のついた容器に詰められ、軌道上でそこへ水を直接注ぎ込んで作る。アポロ時代から飲まれているオレンジ風味の粉末飲料「Tang」が、今も国際宇宙ステーションで消費されているという。

ここで少し想像してみてほしい。

もしストローからうっかり水を押し出してしまったら、小さな水の玉が目の前にふわりと浮かぶ。宇宙飛行士はそれを口で追いかけて、ぱくっと捕まえる。地上なら床を拭くだけの出来事が、ここでは小さな宝物の回収作業になる。

シャワーはない。全身をコップ1杯以下で拭く

では、体はどう洗うのか。結論から言うと、宇宙ステーションにシャワーはない。水が降ってこないのだから、そもそも成り立たない。

代わりに行うのが、いわば「スポンジ浴」だ。NASA の解説では、ポータブル・ウォーター・ディスペンサーからマイラー製のような袋に水をため、石けんをしみ込ませたタオルで体を拭く。すすぎは、水を点々と吹きつけて、玉になったところをタオルで拭き取る。

驚くのはその水の量だ。全身を洗うのに使う水は、だいたい150〜200ミリリットル。

宇宙で全身を拭く水は150〜200mL、コップ1杯ぶんにおさまる

コップ1杯で全身、である。地上のシャワーなら数十秒で流してしまう量だ。温かいお湯を浴びたいときは、水の袋をフードウォーマー(食事を温める機械)で温めてから使うらしい。

歯磨きも一苦労だ。シンクがないので、吐き出した歯磨き粉はタオルに吐く。そのタオルは干して乾かし、水分を回収する。歯磨き粉を少し飲み込んでしまうのは許容範囲だが、しょっちゅうやるのは勧められない、とある。

白状すると、私はここを読むまで「宇宙の歯磨きくらい普通にできるだろう」と思っていた。甘かった。

手を洗うのもウェットティッシュか、ソープの袋から少し出した石けんで済ませる。しかも使える洗面用品には制限がある。NASA によれば、アルコールのように水再生システムが処理できない成分を含むものは持ち込めず、許可リストにある製品しか使えない。顔を拭く一滴まで、あとで水に戻すことを前提に選ばれているのだ。

ついでに言うと、タオルは5日に1枚ほど、カミソリは刃を清潔に保てないので毎日新品、歯ブラシは21日ごとに新しいものが届く。水で洗い流せない世界では、道具のほうを取り替えていくしかない。

涙が顔に溜まる、という事件

ここで最初の涙の話に戻る。洗う水が玉になって肌に貼りつくなら、涙だって当然こぼれない。

地上では、涙は重力で頬を伝い落ちる。だから「涙がこぼれる」という言葉が成り立つ。無重力では落ちる先がないので、涙は目のまわりに溜まり、表面張力でまとまって、大きな水の玉として顔に残る。

これは体の生理が変わったからではない。ただ水が、いつもの「落ちる」をしないだけだ。

目に水が溜まり続けるのは、地上で水中メガネに水が入ったまま我慢しているような感覚に近いと、宇宙飛行士は語っている。泣いてもすっきり流れていかない。涙は、顔の上で行き場をなくす。たまった玉が大きくなると、ようやく表面張力だけでは支えきれず、ふるえながら顔から離れて漂いだす。

この「行き場をなくした水」をどうするか。実は、ここからが個人的に一番好きな部分だ。宇宙ステーションでは、顔に残った涙も、吐く息にまじった湿気も、ぜんぶ無駄にしない。

尿も汗も、吐く息の湿気まで飲み水に戻す

国際宇宙ステーションには、水を再生する仕組み(ECLSS=環境制御・生命維持システムの一部)がある。ここが、宇宙の水とのつき合い方のいちばん驚くところだ。

2023年6月、NASA はこのシステムが水の98%を回収できるようになったと発表した。回収する水の中身が、なかなかすごい。尿、汗、そして空気中に吐き出された呼気の湿気まで含まれる。

尿・汗・呼気の湿気を集めて98%を飲み水に戻す水再生の流れ

流れはこうだ。尿は尿処理装置(UPA)で真空蒸留にかけられる。残った濃い液からも、ブライン処理装置(BPA)が温かい乾いた空気を使って、まだ残っている水分をしぼり出す。この追加装置のおかげで、回収率はそれまでの93〜94%から98%まで上がった。

キャビンの空気中の水分、つまり乗組員の汗や吐く息は、高性能の除湿機が集める。こうして回収された水はすべて水処理装置(WPA)へ送られ、ろ過して不純物を取り除き、最後にヨウ素を加えて保管される。

飲むのに抵抗はないのか、と思うかもしれない。でも考えてみれば、地上の水道水も、もとをたどれば誰かの生活排水が川と浄水場を巡ってきたものだ。宇宙では、その循環を機械のなかに畳み込んでいるだけ、とも言える。

NASA の担当者は「軌道上では水を無駄にする余裕はない」と話している。だから涙の一粒も、吐く息の湿気も、できる限り取り戻す。

蛇口をひねれば水が落ちる、という贅沢

ここまで来ると、朝の洗面所の景色が少し違って見えてくる。

蛇口をひねれば水が落ちてくる。コップに注げば下にたまる。顔を洗えば水はシンクへ流れ、泣けば涙は頬を伝う。どれも「水が下に落ちる」という、ただ一つの前提の上に成り立っている。

その前提は、重力が静かに支えていた。普段あまりに当たり前で、支えられていることにすら気づかない。

宇宙飛行士たちは、コップ1杯で全身を拭き、ストローで水の玉を追いかけ、流れていかない涙を目のまわりに溜めながら暮らしている。そして自分が流した汗も涙も、明日の飲み水として受け取り直す。

今夜、歯を磨いて口をゆすぐとき、排水口に吸い込まれていく水を少しだけ目で追ってみてほしい。あの、何も考えずに捨てている水の流れが、地上400kmの上では一滴残らず誰かの明日になっている。

関連して、無重力が体そのものをどう作り替えるかは宇宙にしばらく住むと体は宇宙用に作り替えられるで書いた。