地球から出てきたばかりの父は、水の飲み方を知らなかった。

いや、そんなはずはない、と父は言うだろう。五十年ずっと飲んできたのだ。でもここ——ステーションの八畳ひと間のわが家では、話がちがった。

「のどがかわいた。水、一杯もらうよ」

父はコップに蛇口から水をためた。玉になった水が、コップのふちからふわふわとはみ出してくる。父はかまわず、ぐいっとコップをかたむけた。

「あっ」

声をあげたのは、ちゃぶ台の向こうにいたユウだった。コップから、ソフトボールくらいの水のかたまりが、ぷるんと抜け出して、部屋のまん中へ泳いでいったのだ。

「おい、こぼれた……こぼれたぞ!」

「お父さん、はらっちゃだめ!」

あわてて手ではらった父の手のひらで、大玉はぱんと小玉の群れに割れた。七つ、八つ、十……数えきれない水玉が、てんでんばらばらに部屋へ散っていく。

「わあ、雨だ! 横の雨!」ユウは大よろこびだ。

「よろこぶな。拭け、拭け!」

母がタオルを放った。タオルも落ちない。くるくる回りながら、水玉のわきをすり抜けていく。

「もう、じっとしてなさいってば!」母がタオルをつかもうと跳ねると、こんどは母のほうが天井にはりついた。

父は扇風機を回した。地球では、こぼした水は風を当てればかわく。そのつもりだった。水玉はいっせいに風に乗り、壁へ、棚へ、茶わんのふたの上へ、きらきらと飛びちった。へやじゅうが、水の銀河になった。

「ばあちゃん! ばあちゃん、大変!」ユウが呼んだ。

ばあちゃんは、さわぎのあいだずっと、すみの座ぶとんに座ったままだった。この家に来て三十年、水のことで一度も騒いだことがない。

「ほらほら、扇風機を止めな。追えば逃げる。水ってのはね、ほうっておくもんだよ」

ばあちゃんは、ふところからストローを一本取り出した。そうして、ふわふわ漂う玉のそばへ、そっと先っぽを近づける。

ちゅう、と小さな音。玉が、すうっとストローに吸いこまれて消えた。つぎの玉へ。ちゅう。棚の上の玉へ。ちゅう。天井のすみの玉へ。ちゅう。

父も母もユウも、ぽかんと口をあけて、ばあちゃんのストローの先を目で追った。十分ほどかけて、部屋から水の銀河が、ひとつ残らず消えた。

ばあちゃんは、吸い集めた水を、空のコップにふうっと吐きもどした。コップの中で、水がまんまるの玉になって、ゆれている。ちょうど、一杯分だった。

「ほら」ばあちゃんはコップを父にさしだした。「最初から、これっぽっちだよ」

父は、しんとした。

「……これだけ、だったのか」

「水はね、こぼれたって一滴も減りゃしない。増えたのは水じゃなくて、騒ぐ人のほうさ」

父は、こんどはこぼさないように、口をコップにぴったりつけて、玉を一息に吸った。ごくり。ずっと、のどがかわいていたのだ。

「うまい」

「だろう」

空になったコップを、ばあちゃんは布でふいて、棚の高いところへ、そうっと戻した。写真立てのとなりだ。

「ばあちゃん、コップ、しまっちゃうの?」ユウが聞いた。

「この家でコップから飲むのは、お父さんだけだからねえ」ばあちゃんは、ふところのストローをふってみせた。「あたしらは、とうにこれさ」

父は、棚の上を見あげた。写真立てのとなりで、コップはもう、水を入れる道具というより、かざりものに見えた。

「……あしたは、ストローにするよ」

「それがいい」

ユウだけが、ちょっとつまらなそうだった。そっと自分のコップに手をのばして、ちゃぶ台のへりでかたむけようとする。その手首を、母が目にもとまらぬ速さでつかんだ。もう、だれよりも手が速くなっていた。