世界一の性能を持つ望遠鏡を、今日ぴかぴかの新品で打ち上げたとする。それでも、どうやっても撮れない写真が一枚ある。
「10年前の木星」だ。
過去にさかのぼって撮ることは、いくら鏡が大きくても、いくら画素が細かくてもできない。ここに、古くなった宇宙望遠鏡をわざわざ生かし続ける理由が、まるごと詰まっている。
今いちばんの望遠鏡でも、手に入らないものがある
新しい機械のほうがえらい、というのは、たいていの道具で正しい。カメラも、パソコンも、新型のほうが性能はいい。
白状すると、僕はずっと宇宙望遠鏡も同じだと思っていた。古い機械はさっさと引退させて、もっと高性能な新型に切り替えたほうがいいに決まっている、と。
ところが、宇宙の望遠鏡にはひとつだけ、新型でも取り返せないものがある。それが「過去の記録」だ。
木星の嵐が去年からどう動いたのか。海王星の渦がいつ消えたのか。こうした「変化」は、その瞬間に空へ向いていた望遠鏡にしか記録できない。あとから最新鋭の機械を持ってきても、消えた渦はもう写らない。
ここが、この話のいちばん妙なところだ。望遠鏡の値打ちの一部は、性能ではなく「どれだけ長く空を見てきたか」で決まってしまう。
一枚では、変化は見えない
なぜ「見続けた時間」がそんなに大事なのか。カギは「定点観測」という考え方にある。
定点観測とは、同じ対象を、同じやり方で、くり返し記録することだ。天文学ではこれを「長期ベースライン観測」と呼ぶ。何年もかけて基準線(ベースライン)を引き、そこからのずれを読み取る。
身近なたとえで言おう。子どもの背を、柱にえんぴつで刻んでいく、あれだ。
刻みが一本だけなら、その子が背の高い子なのか低い子なのかも分からない。ところが毎年刻んでいけば、線と線のあいだの幅そのものが「どれだけ伸びたか」を語りはじめる。一本の線には情報がないのに、並んだ線には成長が写る。
宇宙望遠鏡もこれと同じだ。一回きりの観測は、いわば刻み一本。どんなに鮮明でも、そこには「変化」が写らない。変化は、時間をあけた二枚以上を並べたときに、はじめて姿を現す。
つまり長い記録を持つ古い望遠鏡は、柱いっぱいに刻みがたまった、あの柱そのものなのだ。
ハッブルが36年ためこんだ、木星の日記
具体例がいちばん早い。ハッブル宇宙望遠鏡だ。
NASAによれば、ハッブルが打ち上げられたのは1990年4月24日。2026年のいまで、およそ36年ものあいだ宇宙で働き続けている。人間なら、生まれてから中年になるまで毎年欠かさず同じ空を撮り続けてきたようなものだ。
そのハッブルは、木星・土星・天王星・海王星、そして火星を、くり返し観測してきた。NASAは、この長い運用期間と定期的な観測のおかげで、惑星の「絶えず変わる大気」を研究できるのだと説明している。要するに、木星たちの分厚い「日記」がたまってきたわけだ。
面白いのはここからだ。
その日記をめくると、木星の大赤斑(だいせきはん。地球がまるごと入るほど巨大な、何百年も見えている渦巻きの嵐)に、ゆっくりした変化が見つかった。NASAによれば、2009年から2020年にかけて、大赤斑の外側をまわる風の平均速度が、最大で8%ほど速くなっていたという。
8%と聞くと地味に思えるかもしれない。だが、これは11年という時間をかけて、じわじわ進んだ変化だ。ある一年の写真をどれだけ拡大しても、ここには気づけない。二枚を並べてはじめて、風がわずかに加速していたと分かる。
もしあなたが1990年から毎年、木星を一枚ずつ撮りためて、それをパラパラ漫画のようにめくれたら、と想像してみてほしい。嵐がゆっくり形を変え、風がじわりと速まっていく。その動きは、一枚では決して見えない。
ゆっくりと、くり返す。その両方が長い記録に写る
長い記録が見せてくれるのは、木星の風だけではない。
たとえば海王星。NASAによれば、1994年に南半球にあった大きな暗い渦(大暗斑)が消え、その後、別の暗い渦が現れたことが観測されている。渦がいつ生まれ、いつ消えるのか。この「渦の一生」は、何年も見張っていなければ捕まえられない。たまたま一度だけのぞいた望遠鏡には、渦が消えた瞬間に居合わせる幸運はなかなか回ってこない。
火星もそうだ。NASAは、ハッブルが火星の砂嵐の移り変わりや、極地の氷冠(きょくちのひょうかん。極にある氷の帽子)が季節ごとにふくらんだり縮んだりするようすを記録してきた、としている。
ここで大事なのは、記録の長さが二種類の発見を可能にすることだ。ひとつは、木星の風のような「ゆっくりした変化」。もうひとつは、火星の季節のような「くり返す変化(周期的な現象)」。
どちらも、短い期間の観測では見分けがつかない。たまたま撮った一枚の変わった姿が、めったにない事件なのか、毎年めぐってくる季節のひとコマなのか。長い日記があってはじめて、その区別がつく。
個人的には、ここが一番好きな部分だ。古い望遠鏡は、ただ古いのではない。ゆっくりした変化と、くり返す変化。時間のかかる現象を二種類とも押さえられる、という強みを年々ためこんでいる。
記録の長さは、あとから買えない
さて、ではなぜ、新しい高性能な望遠鏡でこの記録を引き継げないのか。
答えははっきりしている。どれだけ性能が良くても、今日打ち上げた望遠鏡の記録は「0年」から始まるからだ。鏡の大きさも、画素の細かさも、お金を積めば新品で手に入る。けれど「36年ぶんの連なり」だけは、36年待たなければ手に入らない。お金を積んでも時間だけは早送りできない、という当たり前で、少し不思議な話でもある。
ちなみにチャンドラX線観測衛星も、NASAによれば1999年7月23日の打ち上げで、いまや約27年働くベテランだ。X線という、目に見えない光で宇宙の激しい現象を見張ってきた。こちらもまた、長い記録という財産をためこんできた一台である。
もちろん、古い機械を生かし続けるのはタダではない。姿勢を保つための燃料は減っていくし、部品も古びる。宇宙にうっすら残る空気の抵抗で、望遠鏡の軌道は少しずつ下がってもくる。運用にはお金も手間もかかり、どこまで延命するかは、そのつど研究チームやNASAが天秤にかける判断になる。
天秤の一方には、維持費がのる。もう一方にのるのは、他のどんな新品にも作れない記録の続きだ。ここで新品に乗り換えれば、性能は上がる。けれど、その瞬間にこれまでの「日記」の続きは途切れ、次の一年ぶんの変化は永久に空白になる。道具を「新しさ」で測るか、「続けてきた時間」で測るか。宇宙望遠鏡は、その二つの物差しがはっきり食い違う、めずらしい道具なのだ。
柱の刻みは、増やし続けるほど値打ちが出る
正直、これを知ったとき、望遠鏡の見方が少し変わった。
僕らはつい、新しくて高性能なものに目を奪われる。速い、大きい、細かい。数字で勝るほうを、無条件でえらいと思ってしまう。でも、柱に刻んだ子どもの背の線は、増えれば増えるほど手放しがたくなる。一本ずつは何でもない鉛筆の跡なのに、三十年ぶんそろえば、もう二度と作れない記録になる。
古い宇宙望遠鏡が守っているのも、まさにその柱だ。今夜も、1990年から続く木星の日記に、新しい一ページが書き足されている。その一枚が本当に効いてくるのは、たぶん、まだ生まれていない誰かが十年後にページをめくったときだろう。