宇宙が生まれて、まだ6億7000万年ほどしか経っていない頃。その若い宇宙に、太陽をおよそ16億個ぶん飲み込んだブラックホールが、もうぎらぎらと光っていた。
しかもその光を、私たちはいま、地球から実際に観測できる。130億年以上の旅をしてきた光として、である。
問題はここからだ。そんな昔に、これほど巨大なブラックホールが育つ時間なんて、本当にあったのだろうか。
宇宙の赤ん坊時代に、その怪物はいた
話の主役は「J0313-1806」という、そっけない名前のクエーサーだ。クエーサー(quasar)は、超巨大ブラックホールが周りのガスを飲み込むときに放つ、猛烈な光のことをいう。
2021年に報告されたこの天体は、赤方偏移(光が引き伸ばされる度合い)で z=7.642。研究チームによれば、これは宇宙誕生からおよそ6億7000万年後の姿にあたる。
数字だけ見るとピンとこない。宇宙の年齢は約138億年だから、6億7000万年というのは、その5%ほど。宇宙の一生を1年に縮めると、まだ生後18日くらいの、生まれたての時期にあたる。
その赤ん坊の時代に、中心のブラックホールは太陽16億個ぶんの重さに達していた。周りのガスを飲み込む勢いはすさまじく、その明るさは太陽のおよそ36兆倍。銀河には星が数千億個もあるのに、その総量より、中心のたった一点のほうがまぶしいのだ。
この数字、最初は誤植かと思った。生まれたての宇宙に、もう完成品みたいな怪物がいる。しかも遠すぎて見えないはずのものが、なぜ見えているのか。
遠くを見るのは、昔を見ること
じつはこの「遠すぎるのに見える」が、天文学で一番おいしいからくりだ。
光の速さは有限で、宇宙のスケールでは意外とのろい。太陽の光が地球に届くまで約8分かかる。つまりあなたが昼間に見ている太陽は、8分前の太陽なのだ。
夜空の星なら、この時差はもっと大きい。何十年、何百年、何千年も前に出発した光が、いまごろ目に届く。星を見上げるという行為は、そのまま過去を見る行為でもある。
ここで少し立ち止まってほしい。130億光年より遠くにあるクエーサーの光は、130億年以上前に出発している。それを今つかまえるのは、130億年前の宇宙をリアルタイムで覗くのと同じことだ。
だから J0313-1806 を観測できるのは、それが「遠い」からこそ、「昔」だからだ。遠くを見る望遠鏡は、そのまま宇宙の過去へ向かうタイムマシンでもある。
もしあなたが、その光の出発点である6.7億歳の宇宙に立っていたら。まだ銀河もまばらで、空には生まれたての星がぽつぽつ。その真ん中で、一点だけが太陽の何十兆倍もの光で燃えている。想像すると、ちょっと背筋がぞわっとする光景だ。
でも、ここで最初の疑問が戻ってくる。なぜそんな昔に、これほど育ったブラックホールがいられたのか。
クエーサーは、ブラックホールの「食事」の輝き
謎に入る前に、クエーサーが光る仕組みをおさえておきたい。やや細かい話になるが、ここを飛ばすと後で効いてこない。
ブラックホールそのものは、光すら出てこない真っ暗な穴だ。ではなぜクエーサーは宇宙で最も明るい部類の天体なのか。光っているのは、穴の中ではなく、その手前だからである。
吸い込まれる寸前のガスは、ブラックホールの周りをぐるぐる回りながら「降着円盤(こうちゃくえんばん)」という渦をつくる。この渦は猛烈な摩擦で数万度以上に熱せられ、飲み込まれる直前に激しく光る。
クエーサーの名前は「準恒星状天体(quasi-stellar object)」の略だ。望遠鏡では星のような点に見えるのに、正体は銀河の中心そのもの。点にしか見えないのに、銀河より明るい。この矛盾めいた姿が、遠い宇宙で目立つ理由だ。
ただし、いくらガスを飲んでも際限なく明るくなれるわけではない。飲み込む勢いが強すぎると、円盤が放つ光の圧力がガスを外へ押し返してしまう。この「食べる速さの上限」を、エディントン限界と呼ぶ。
つまりブラックホールには、成長のスピードにブレーキがかかっている。そしてこのブレーキこそが、J0313-1806 を厄介な存在にしている。
時間が、どうしても足りない
面白いのはここからだ。ブラックホールが太陽16億個ぶんまで育つには、当然ながら時間がかかる。
種になる最初のブラックホールは、重い星が寿命を終えて潰れたものだと考えられている。その質量は、せいぜい太陽の数十倍ほど。そこから食べて食べて、16億倍まで太る必要がある。
ところがエディントン限界のブレーキがある以上、太る速さには上限がある。研究チームの見積もりでは、ふつうの種からふつうの速さで育てても、宇宙誕生から6.7億年ではとても16億倍まで届かない。
たとえるなら、生まれたての赤ん坊が数日で大人の体格になるようなものだ。生き物の常識では起きないことが、宇宙の初期には起きていたことになる。
言い換えると、レシピどおりに料理していたら、開店時間にまったく間に合っていない。なのに、できあがった料理はもう目の前にある。J0313-1806 を報告した研究チームは、こう表現している。この存在は超巨大ブラックホールの成長理論に、重大な難題を突きつける、と。
観測は「ある」と言っている。理論は「間に合わないはず」と言っている。このズレこそが、初期宇宙のクエーサーが天文学者を悩ませている核心だ。
重い「種」から始めた、という賭け
では、どう説明するのか。有力視されているのは、そもそもスタート地点の種がずっと重かった、という考えだ。
星の死骸から始まる種ではなく、大量のガスが星をつくらないまま一気に潰れる。そうして、いきなり太陽の数万倍という重い種ができた——研究者はそんなシナリオを検討している。「直接崩壊」と呼ばれる筋書きだ。太いスタートを切れば、限られた時間でも巨大に育つ余地が出てくる。
種を重くする以外に、一時的にブレーキを超えて猛烈に飲み込む時期があった、とする説もある。どれが正しいのかは、まだ決着していない。
白状すると、私はこの「答えが決まっていない」ところが一番好きだ。J0313-1806 は孤立した例外でもない。その少し前、2018年には別のクエーサー J1342+0928 が報告されている。こちらも宇宙誕生から約6.9億年後に、太陽8億個ぶんのブラックホールを抱えていた。
古い記録が塗り替えられるたび、ブラックホールは「もっと昔から」「もっと大きく」なっていく。見つかるほどに、時間が足りない問題は深まっていく。生まれたての宇宙は、天文学者の予想よりずっと足が速かったらしい。
あなたが見上げる光も、少し昔
ここまでの話を、もう一度あなたの足元に戻してみたい。
今夜あなたが窓から見上げる星の光は、どれも少しずつ過去のものだ。数年前、数百年前、ものによっては人類が文字を持つ前に出発した光が、いまあなたの網膜に届いている。空を見るとは、いつも「昔を見る」ことなのだ。
その延長線上のいちばん奥に、J0313-1806 がある。宇宙が生後18日だった頃の光。太陽16億個ぶんの怪物が、なぜそこにいられたのかは、まだ誰も自信を持って答えられない。
わからないことが残っているというのは、次に望遠鏡がもう少し遠くを覗けば、宇宙のもっと若い姿が見えるということでもある。答えは、130億年より奥の暗がりのどこかで、まだ静かに光っている。