系外惑星の大気から、生命が作るかもしれない分子の兆候が出た。ふつうなら大ニュースだ。ところが観測した当人たちが、まっさきに口にするのは「まだ喜べない」だったりする。
期待していた手がかりが出たのに、なぜ喜ばないのか。冷めているわけでも、謙遜しているわけでもない。彼らは、自分が引っかかりやすい罠を先に知っている。
その罠の正体と、科学者が「発見」という言葉を出し惜しみする理由の話をしたい。
「兆候」と「発見」は、別の言葉だ
まず、系外惑星の大気をどうやって調べるのか。惑星が主星(その惑星が回っている恒星)の前を横切る瞬間、星の光がほんの少しだけ惑星の大気を透かして届く。
このとき、大気中の分子は決まった色(波長)の光を吸い込む。だから届いた光の色ごとの強さを調べると、どんな分子がありそうかが読める。JWST(ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡)が得意とする観測だ。
ここで、ある分子の吸収らしき「へこみ」がグラフに現れたとする。生命の活動と結びつくかもしれない分子――いわゆるバイオシグネチャー(生命の兆候となりうる物質)だったら、心が躍る。
でも、そのへこみは本当に分子のせいか。観測装置のノイズ(雑音)や、たまたまのゆらぎが、それらしい形を作っただけかもしれない。
だから科学者は、まず「兆候」と言う。「発見」とは言わない。この2つの言葉のあいだには、はっきりした境界線が引かれている。
「確からしさ」を測る物差し、それがシグマ
その境界線を測るのが、シグマ(σ)という物差しだ。ざっくり言えば「この結果が、まぐれで起きてしまう確率はどれくらい低いか」を表す。
たとえばコインを投げて表ばかり続いたとする。数回なら偶然だろう。でも何十回も表が続いたら、「このコイン、細工されてる?」と疑い始める。
シグマは、この「まぐれにしては続きすぎ」の度合いを数字にしたものだと思ってほしい。値が大きいほど、偶然では説明しづらくなる。
段階を見てみよう。1シグマなら、まぐれで起きる確率はけっこう高くて、まだ何とも言えない。2シグマでもまだ足りない。
3シグマまで来ると、まぐれで起きる確率はおよそ740分の1。ぐっと下がる。ここでようやく「兆候(エビデンス)」と呼ばれることが多い。
そして5シグマ。まぐれで起きる確率は、なんと約350万分の1まで下がる。
この数字、最初は誤植かと思った。3シグマの740分の1から、たった2段上がっただけで、いきなり万の位を飛び越えて350万分の1になる。シグマは足し算ではなく、坂道が急に切り立つように効いてくるのだ。
発見の基準は「コイン22回、全部表」級
350万分の1と言われても、正直ピンとこない。身近なものに置き換えてみる。
コインを続けて投げて、全部が表になる確率を考える。10回続けて表なら、およそ1000回に1回。3シグマ(740分の1)は、だいたいこのあたりだ。
では5シグマは。ざっくり言うと、コインを22回続けて投げて、22回とも表になるくらいの珍しさになる。
想像してみてほしい。手のなかのコインを、22回投げて、一度も裏が出ない。途中で「さすがにおかしい」と誰もが思う。5シグマとは、それくらい「偶然ではあり得ない」と胸を張れる水準なのだ。
素粒子物理の世界では、この5シグマを「発見」と呼んでいい基準にする習わしがある。3シグマまでは「兆候」、5シグマではじめて「見つけた」と言う。厳しすぎる気もするが、理由がある。
なぜ、そこまで厳しくするのか
3シグマ、つまり740分の1でもかなり低い。それでもなお発見と呼ばないのは、慎重すぎるからではない。過去にさんざん痛い目を見てきたからだ。
物理の歴史では、3シグマどまりの「兆候」が、データを増やしたらすっと消えてしまった例が何度もある。あのとき騒がなくてよかった、という後悔の積み重ねが、基準を吊り上げてきた。
ここで少し立ち止まってほしい。地球上の実験なら、装置を組み直して何度でもやり直せる。でも系外惑星は、何十光年、何百光年も先にある。
同じ惑星が主星の前を横切るのは、数日に一度だったり、もっと間遠だったりする。追加のデータを集めるだけで、何年もかかることがある。やり直しがきかない場所を相手にするからこそ、一回一回の判断は慎重になる。
まぐれの山にぬか喜びして「生命を見つけた」と世界に告げ、あとで引っ込める。それは科学の信用そのものを削ってしまう。だから基準線を高く引く。
もう一人の敵は、期待している自分自身
数字の話だけなら、まだ話は単純だ。ところが、生命探しにはもっと厄介な相手がいる。観測している本人の心である。
人は、見たいものを見てしまう。「ここに生命の分子があるはずだ」と期待していると、ノイズの中のそれらしい形が、つい本物に見えてくる。これを確証バイアス(自分の期待に合う証拠ばかり集めてしまう心の癖)という。
白状すると、この落とし穴を長いあいだ「うっかり者の話」だと思っていた。違う。優秀な研究者ほど、自分がこの罠にかかることを本気で警戒している。
さらに、分子そのものにも落とし穴がある。生命が作る分子の多くは、生命がいなくても、別の化学反応や火山のような働きで作られることがあるのだ。
つまり、めざす分子が確かにそこにあったとしても、それだけでは「生命がいる」の決め手にならない。生命なしで説明する道が残っていないか、一つずつ潰す必要がある。これを偽陽性(生命がいないのに、いるように見えてしまうこと)の排除という。
シグマという数字の壁と、確証バイアスという心の壁。生命の兆候は、この二重の壁の手前で足止めを食らう。
喜ばないことは、冷たさではなく誠実さ
では、兆候から発見までの道のりはどう進むのか。まず追加の観測でデータを増やし、まぐれの可能性を削っていく。
次に、別の研究チームが独立にやってみて、同じ結果が出るかを確かめる。一つのチームだけが見た山は、まだ誰かの思い込みかもしれないからだ。そうやって偽陽性の道を一本ずつ塞ぎ、確からしさが基準線を越えて、はじめて「発見」の言葉が解禁される。
この慎重さは、健康診断に少し似ている。一度の検査で影が見つかっても、医師はすぐ病名を告げず、日を変えて再検査する。別の角度から撮り直し、初回がたまたまの写り込みでなかったかを確かめる。系外惑星の生命探しも、心構えは同じだ。一度きりの結果で決めつけない。
だから、系外惑星から生命の兆候が出ても科学者がすぐ喜ばないのは、夢がないからではない。むしろ逆で、「もし本物なら人類史上いちばんの発見になる」と分かっているからこそ、生半可な確かさで名乗りを上げたくないのだ。
期待していることを、いちばん疑う。まぐれと、思い込みと、生命なしで説明する道を、順番に潰していく。派手さはないが、この地味な手続きこそが、いつか本物の兆候が来たときに、それを本物だと信じさせてくれる支えになる。
次にニュースで「生命の兆候か」という見出しを見かけたら、そのすぐ下にたいてい書いてある一言に目を留めてほしい。「ただし、確認にはさらなる観測が必要」。あの一文は、慎重すぎる注釈ではなく、350万分の1の坂道をまだ登っている途中だという、正直な現在地の報告なのだ。