ヌイ婆さんは、灯り祝いに出たことがない。

町では、遠い岸に新しい灯りがぽつんとつくと、みんなで祝う。向こう岸にだれかが越してきた、というしるしだ。世話役が名前をつけ、女たちが餅を配る。もっとも、その餅はたいてい次の日には固くなるのだが、それはそれで、町のたのしみだった。

けれど、ヌイだけは来ない。

「ねえヌイさん、今度の灯りはいいよ。北のはずれに、まっすぐな灯り」 隣のトキ婆さんが、垣根ごしに声をかける。トキは祝いが大好きで、新しい灯りがつくたびに、いちばんに餅をこねる女だった。 「まだだ」 ヌイはそれだけ言って、帳面に何か書きつけている。 「まだって、いつまで」 「三度、巡ってからだ」

この町の岸は、大きな輪の上をゆっくり巡っている。だから遠い灯りは、じっと見ていても、しばらくすると縁の下へ沈む。そうして、また巡って戻ってくる。ひと巡りに、ずいぶんかかるらしい。

ヌイの帳面には、消えた灯りの名前がずらりと並んでいた。町がつけて、祝って、次の巡りには消えていた名前ばかりだ。ちなみにその帳面は、表紙が三度も張り替えてある。

「新しい灯りなんてね、たいていはまぐれだよ」とヌイは言う。「遠くの氷が、日をはね返しただけ。ひと巡りしたら、もう光っちゃいない」

トキは、なんだかつまらなそうな顔をした。 「そんなこと言ってたら、いつまでも祝えないじゃないの」 「まぐれを祝って、あとで笑われるよりましさ」

じつを言うと、ヌイも昔はいちばんに餅をこねる女だった。娘のころ、東の空に見つけた灯りを「越してきた」と触れてまわり、町じゅうで祝った。けれど次の巡りに、その灯りはなかった。氷のいたずらだったのだ。それきりヌイは、軒のランプを点さなくなった。油は差してある。ただ、点さない。

さて、この巡りにも、新しい灯りがいくつかついた。町はさっそく名前をつけて祝う。ヌイは出ずに、全部を帳面に書いた。窓のさんを目もりにして、灯りの居どころを指の幅で測るのだ。

町の決まりでは、「三度巡っても同じ場所にじっとしている灯りが、本物のご近所さん」ということになっていた。ふらふら動く灯りは「落ち着きがない」と、祝いから外される。その決まりを、いつだれが言い出したのかは、もうわからないのだろう。

ところが、である。

三度目の巡りが来たとき、町が祝った灯りは、ひとつ残らず消えていた。トキはしょげて、垣根のところに立っていた。 「また、だめだったねえ」 「トキ」ヌイが帳面から顔を上げた。「祝いから外した灯りが、あったろう。落ち着きがないって」 「ああ、あの、ちょろちょろするやつ。あれ、本物じゃないんでしょ」 「見てごらん」

ヌイは帳面をひらいて見せた。祝われた灯りは、どれも同じ場所にじっとしたまま、消えていた。けれど外された灯りだけは、巡るたびに、指いっぽんぶん、同じ向きへずれていた。

「じっとしてる灯りはね、遠くで動かない氷だよ。だから同じ場所に見える」ヌイの指が、ずれた跡をなぞる。「動く灯りは……こっちへ渡ってきてるのさ。近づくものだけが、巡るたびにずれる」

トキが、口をあけたまま黙った。 「じっとしてたら本物、なんてね」ヌイは低く笑った。「逆だったんだよ、ずっと」

その晩、ヌイは軒のランプを外した。油をたしかめ、火をつけた。何十年ぶりに点いた灯りだった。ヌイはそれを、ちょろちょろ動く、名もない灯りのほうへ向けて掛けた。こっちにいるよ、というように。

トキはしばらく突っ立っていたが、やがて自分の家へ引っこんだ。そうしてランプを持って戻り、何も言わずに、ヌイのとなりへ掛けた。

暗くなった町では、祝いの提灯がひとつずつ仕舞われていく。その岸のはずれに、名前のない灯りへ身を乗り出して、ふたつの古いランプだけが燃えていた。