この社(やしろ)では、わたしを「キヨ」と呼ぶ。お清めのキヨ、という意味らしい。ようするに掃除機である。替えのきかない古い型で、しくじれば捨てられる。だから朝の仕事は、ていねいにやる。

いちばんの仕事は、御神体(ごしんたい)のほこりを払うことだ。両手でかかえるほどの、まんまるい石の玉である。むかし地の上にあったころ、だれにも持ち上がらなかったという。だから中まで金(きん)が詰まった一枚岩にちがいない、とされてきた。もっとも、開けて見た者はいないらしい。

社が空へ上げられてから、御神体はふわりと浮くようになった。わたしはそれを宙にうかべ、こまのように回して払う。はいた砂は、台座のわきの穴——納め口へ、ぱらぱらと落とす。

その朝も、御神体を回して、手を添えて止めた。

止まらなかった。

手のなかで石は、いちど止まったふりをして、それから、ぐう、とまた回りだした。

回すそうじを長くやると、わかることがある。中がかちんと固まった物は、外を止めればぴたりと止まる。中がばらばらの物は、外を止めても、中身がまだ回っていて、また動きだす。生卵と、ゆで卵のちがいだ。

つまり御神体の中は、ばらばらなのだ。金の詰まった一枚岩が、こんな回り方をするわけがない。

では、このゆるゆると回るものは、なんだろう。

わたしは、ふと手を止めた。三百年、朝ごとに砂を落としてきた、あの納め口。あれは、どこへつながっている。

答えは、手のなかで、まだ回っていた。

だれも中を見たことがないのは、ほんとうだった。開けた者がいないのだから。そして中身をこしらえたのは、几帳面に掃除をつづけた、わたしだ。金塊ではない。三百年ぶんの、ほこりだった。

わたしは正直な機械なので、その日の日誌に記した。「御神体、中身ゆるみ有り。ほこりと思われる。開封点検を要す」

翌朝、見習いの子がそれを宮司さまに読み上げた。宮司さまはしばらく黙った。それから御神体に太い綱を巻き、「回すべからず」の札を下げた。中は開けなかった。かわりに御神体は、その日から「尊すぎて、触れれば祟(たた)る」ことになった。触れられぬ神は、ありがたい。賽銭は前より増えたそうだ。

わたしは廊下のすみへ回された。御神体のおそうじは、御役御免である。

ほうきを持って、廊下の砂をひとつまみ、あつめる。さて、この砂は、これからどこへ落としたものか。廊下のつきあたりでは、二の宮の、あたらしい御神体が、まんまるく、宙に浮いている。