レンは、いつか空が動くところを見てみたかった。
けれどこの星の空は、ずうっと同じだった。凍りついたまま、雲ひとつわかない。だれも、動く空というものを見たことがなかったのだ。
毎朝、ロクじいの家の垣根から空の報告をするのが、レンの役目だった。
「じいちゃん、今日も晴れ」 「そうか。晴れか」
ロクじいは、空を見上げもしない。地面ばかり見て歩く年寄りだった。もっとも、見上げたところで、どうせいつもと同じなのだ。
だからこの町では、「曇ったら」というのが、便利な言葉になっていた。「曇ったらな」「曇ったら返すよ」。つまり、そのうち、いつか、まあ、やらない、ということだ。ていねいな「やだね」の言い方、とでもいうか。
床屋の看板には「曇った日はただ」と書いてある。ちなみにこの看板、書いた本人がいちばん安心して眺めていたらしい。曇らないかぎり、ただにしなくて済むのだから。
レンにも、ひとつだけ「曇ったら」があった。
「じいちゃん、おれ、雨ってやつに濡れてみたい」 「ばかを言え。曇ったら、ずぶ濡れにしてやるよ」
この星では、それは「一生させてやらない」という意味である。レンもだんだん、そういうものかと思っていた。
ところが、その朝だった。
垣根から空を見て、レンは声が出なくなった。空の東のはしに、白いかたまりが、ぽっかり浮かんでいる。ずっと眠っていた空気が、ふと身じろぎしたみたいに。
「じ、じいちゃん! 曇った! ほんとに曇った!」
町じゅうが大さわぎになった。うれしいのではない。みんな青くなっているのだ。床屋は、看板をそうっと裏返した。「曇ったら」と言い続けてきた者みんなが、いっせいに逃げ場をさがしていた。
ロクじいは、しばらく空をにらんで、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「……しかたねえな。来い、レン」
腕をつかまれて、外へ引っぱり出された。約束は約束だ、というようなしぶい顔で。とうとう雨に濡れる。生まれてはじめて。レンの胸はどきどきした。
雲が、まっすぐ頭の上まで来た。そして、静かに降りはじめた。
けれど、それは雨ではなかった。
白い、小さなかけらだった。ひらひらと、ちっとも急がずに落ちてくる。手にのせても、冷たいだけで、ぬれない。寒すぎて、雨は雨のまま落ちてこられないのかもしれない。
ロクじいは、それを見て、ぱっと顔を明るくした。
「なんだ。濡れとらんじゃないか」
そうして、まだ乾いた自分の手のひらを、レンに見せた。
「約束は『雨に濡らす』だ。おまえ、濡れとらんだろ。だから、まだ先よ。ちゃんと降ったらな」
言い訳は無敵だった。空がとうとう本気を出しても、ロクじいの「曇ったら」は、するりと、また一段、先へ逃げた。じいちゃんは勝ちほこって、家へ引き返そうとする。
レンは、しゃがんで、積もった白いものを両手いっぱいにすくった。冷たくて、きゅっと固まる。それを、ロクじいのかわいた手のひらに、ぎゅっと押しつけた。
「じゃあ、これ、あずけとく」
手の中で、白いかたまりがじわりと溶けはじめる。
「次に曇ったら、返してもらうからな」
ロクじいは、口を開けたまま、手のひらの冷たいのを、なんとも言えない顔で見ていた。もう「曇ったら」とは、言えなくなっていた。
白いものは、町じゅうの屋根に、逃げまわる大人たちの肩に、静かに積もっていく。この星がはじめて見た空の動きを、レンだけが、両手に握っていた。