土星をまわる大きな月の、北の海の上で、雲がむくむくとわき上がった。
しかも、それがゆっくり形を変えて消えていくまでを、地球の望遠鏡が見届けた。相手は地球から10億km以上も離れた土星の衛星タイタンだ。天気予報でおなじみのあの「わき雲」が、太陽系のはるか外側でも起きていた。
白状すると、私はタイタンの空を、ただモヤに覆われたのっぺりした世界だと長いこと思い込んでいた。実際はもっと、地球に似た「気象」がめぐる場所だったらしい。
海の上に、雲がわいた
観測したのは2つの望遠鏡だ。NASAのジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)が2022年11月4日に、ハワイのケック望遠鏡が続く11月6〜7日に、タイタンへレンズを向けた。
とらえたのは、タイタンの北半球にわき上がる雲だった。場所は「クラーケン海」という、タイタンで最大とされる液体メタンの海のあたり。研究チームを率いたのはNASAゴダード宇宙飛行センターのコナー・ニクソン氏らで、ケック側の観測はカリフォルニア大学バークレー校のイムケ・デ・パター氏のチームが担当した。
タイタンは、太陽系の衛星のなかで唯一、分厚い大気をまとっている。そして地球以外で、いま現在も液体の川・湖・海が地表にある唯一の場所でもある。その海の上に雲がわくのだから、地球の海辺の風景とそう変わらない。
北半球というのが、また効いている。タイタンの湖や海の多くは、この北側に集まっているのだ。いわば「水郷地帯」の真上で、天気の現場を押さえたことになる。研究チームによれば、北半球で雲がわき上がる活発な様子を追えたのは今回が初めてだという。
ただ、ここで一つ引っかかることがある。なぜ「北」だったのか。
なぜ「北」だったのか──タイタンにも季節がある
答えは、季節だ。タイタンにも、地球と同じように季節がめぐる。
やや細かい話になるが、ここを飛ばすと後で効いてこない。タイタンは土星といっしょに太陽のまわりを回っていて、その一周は地球の約29.5年ぶんもかかる。つまりタイタンの1年は、私たちの30年近く。だから1つの季節も、ざっと7年という長さになる。
近年、北半球は晩夏にあたる時期を迎えていた。太陽の光で北側の地面がじわじわ暖められる季節だ。地面が暖まれば、その上の空気は上へと昇り、冷えて雲になる。夏の午後に入道雲がわくのと、理屈は同じである。
もっとも、タイタンに届く太陽の光は弱い。土星は地球よりずっと外側を回っていて、太陽の光は地球で浴びる量のおよそ1%ほどしかない。それでもこの弱い日ざしが、7年がかりでじわりと海を温め、雲を育てているわけだ。
面白いのはここからだ。気候の計算モデルは以前から、「タイタンの北半球では晩夏に雲ができやすいはず」と予測していた。今回の観測は、その予想どおりの季節に、予想どおりの場所で雲を見つけた。モデルの答え合わせが、実際の空でできたわけだ。
では、その雲からは何が降るのか。地球の常識は、ここで通用しない。
降るのは水ではなく、メタンの雨
タイタンの気温は、およそマイナス180℃。この寒さでは、水は岩みたいにカチカチに凍りついていて、雨にはなれない。
代わりに雨として降るのが、メタンだ。地球ではガスコンロの燃料に使われるあのメタンが、タイタンでは液体になって空と地面をめぐっている。蒸発して雲になり、雨になって降り、川を流れ、湖や海にたまる。地球の「水の循環」を、そっくりメタンに置き換えた世界だと思えばいい。
このメタンの循環そのものは、以前から知られていた。土星を長く周回した探査機カッシーニと、タイタンに降り立った着陸機ホイヘンスが、北の湖や海、雨で削られた川筋を見つけていたからだ。ただ、その循環の「エンジン」である雲がわき上がる瞬間を、活発な北の海の上で押さえたのは、今回の新しさである。
私たちが天気予報で「明日は雨」と言うのと同じ感覚で、タイタンの住人がいたら「明日はメタン雨」と言うのかもしれない。妙な話だが、雲・雨・川・湖という登場人物はぴたりと同じで、主役の液体だけが入れ替わっている。
大気の主成分が窒素なのも、実は地球とよく似ている。地球の空気もおよそ8割が窒素だ。空の色や成分の骨格が似ているぶん、「別の液体でできた地球」という言い方が、そう大げさには聞こえない。
ただ、雲が「わき上がる」には、空気がちゃんと上下に動いていないといけない。それを本当に確かめられたのか。
30時間、雲を見つめ続けて見えた「動く大気」
ここが今回の観測のいちばんの勘どころだ。研究チームは、時間を置いて撮った画像をつなぎ、雲の変化を約30時間ぶん追いかけた。
すると、タイタンの自転にのって片方の雲が視界に回り込んでくる一方で、別の雲がしぼんで消えていく様子が見えたという。雲は貼りついた模様ではなく、生まれて育って消える、生きた存在だった。
一枚の写真では「雲がある」ことしか分からない。でも時間を追えば「雲がわいて、流れて、消える」まで分かる。静止画と動画くらいの差がある。この動きこそ、タイタンの大気の中で空気が上下に動いている──つまり地球と同じような対流(暖かい空気が昇って冷える動き)が起きている証拠になる。
ここで少し想像してみてほしい。もしあなたがそのメタンの海の岸に立っていたら。頭上ではオレンジ色のモヤの下、白っぽい雲がむくむくとふくらみ、やがて冷たいメタンの雨がぽつぽつと落ちてくる。傘がいる惑星が、土星のそばにある。
ついでに見つかった、「壊れかけの分子」
もう一つ、今回の観測にはおまけがついていた。大気の上のほうで、メチルラジカル(CH3)という分子がとらえられた。
これがなかなか渋い発見なのだ。タイタンのメタン(CH4)は、水素を4つ抱えた安定した分子だ。ところが太陽の光や飛んでくる粒子にぶつかると、水素を1つはじき飛ばされて、CH3という不安定な状態になる。この「水素が1つ足りない、途中の姿」がメチルラジカルである。
途中の姿ということは、料理でいえば「切りかけの食材」が調理台に置かれているのを見つけたようなものだ。それが見えたということは、いままさに厨房が動いている──タイタンの大気で化学反応が進行中だという、なまなましい証拠になる。観測チームは、この分子を今回あわせてとらえたと報告している。
タイタンのモヤや、地表にたまる有機物は、こうした反応の積み重ねで作られていくと考えられている。メタンが壊れ、つなぎ直され、より複雑な分子へ育っていく。その反応の「途中」を押さえられたのは、化学の現場に立ち会えたようなものだ。
地球の外に、天気予報が要る世界がある
雲がわき、季節がめぐり、雨が降り、大気の中で化学が進む。並べてみると、タイタンでやっていることは地球の営みと驚くほど重なる。ちがうのは、主役が水ではなくメタンで、寒さがマイナス180℃だということくらいだ。
この「もう一つの地球のような循環」を、私たちは近いうちに地面から眺められるかもしれない。NASAは2028年に、ドローンのように飛びまわる探査機ドラゴンフライをタイタンへ送り出す計画だ。空から見た雲の下に、実際に降り立つ番がやってくる。
今夜あなたが天気予報を見て傘の心配をするとき、思い出してほしい。10億km先の土星のそばにも、海の上に雲がわき、明日の天気を気にしたくなる世界が、たしかに存在している。