ライターをつける。ガスコンロをひねる。ろうそくに火を移す。どの炎も、申し合わせたように上へ向かってとんがっている。
あのしずくを逆さにしたような形を、炎そのものの形だと思っていないだろうか。
実はあれ、炎の性質ではない。重力がつくった形だ。重力を取り払ってやると、同じ炎がまんまるの青い球になる。
炎が「上」に伸びるのは、炎じゃなくて空気の都合
まず、なぜ炎は上にとんがるのか。犯人は炎ではなく、そのまわりの空気だ。
炎に熱せられた空気はふくらんで軽くなり、上へ昇っていく。するとそのあいだに、下から冷たくて重い空気が吸い込まれてくる。この新しい空気が酸素を運び、炎を燃やし続ける。熱い空気が昇り、冷たい空気が入り込む。この循環がぐるぐると休みなく回り続けている。
NASAの説明でも、重力が冷たく密度の高い空気を炎の下に引き寄せ、それがあの独特の形とゆらめきをつくる、とされている。つまり炎の形は、空気が下から上へ流れる「上昇気流」のかたちをなぞっているだけなのだ。ゆらゆらと揺れるのも、流れ込む空気が一定ではなく、たえず乱れているからにすぎない。
白状すると、この仕組みを長いこと誤解していた。炎が自分の意思で天に向かっているような気がしていたが、そうではない。空気が上に抜けていくから、炎も引き伸ばされて上を向く。炎は、まわりの空気に引っぱられているだけの存在だった。
では、その上下がなかったら、炎はどこを向くのだろう。
無重力では、炎は音もなく青い球になる
ここで登場するのが、国際宇宙ステーション(ISS)だ。
ひとつ誤解を解いておきたい。無重力といっても、重力がゼロなわけではない。ISSが飛んでいるのは上空およそ400km。この高さでも、地球の重力は地上の9割ほど残っている。
ではなぜ中は無重力になるのか。ISSが秒速およそ7.7kmという猛スピードで、地球に向かってずっと落下し続けているからだ。落ちながら同時に横へ進むので、地面に激突せず、落ち続けたまま地球を回る。中にいる人も空気も炎も、全部いっしょに落ちている。だから重さを感じない。
この数字、初めて知ったときはピンと来なかった。秒速7.7kmは時速にすると約2万8000km。東京から大阪までを1分かからず飛び越える速さで、休みなく落下し続けている計算になる。
さて、この落下する部屋の中では、空気が上へ抜けていかない。上も下もないのだから、上昇気流も生まれない。酸素は四方八方からゆっくりにじむように炎へ届くだけになる。
結果、炎はどこか一方向に伸びる理由を失う。上下左右どこも同じ条件になり、炎はまんまるの球になる。NASAも、勢いの弱い炎は無重力で丸く、球状にすらなると述べている。揺らすものが何もないので、ゆらめきも消える。
色が青いのにも理由がある。地上の炎のあの黄色やオレンジは、酸素が足りずにくすぶった細かいススが、高温で光っている色だ。無重力では空気の流れがなく、燃え方がゆっくりきれいに進むため、ススがあまりできない。黄色い輝きが消え、燃焼本来の青い光だけが残る。地上の炎が黄色いのは、言いかえれば「燃え残し」が光っているからだとも言える。
想像してみてほしい。あなたがISSでろうそくに火をつけたとする。炎はしずく形にならず、ゆらめきもしない。親指の先ほどの青い球が、芯の上に音もなく静かに浮かぶ。地上で何百回と見た火とは、まるで別の生き物だ。マッチを近づけても、炎は横に流れたりしない。ただ、そっと丸くふくらむだけだ。
消えたはずの火が、見えないまま燃え続ける
面白いのはここからだ。
NASAが宇宙で燃料のしずくを燃やす実験(FLEX)をしていたとき、研究チームは奇妙なものを見た。目に見える炎が消えたあとも、何かがまだ燃え続けていたのだ。
これが「クールフレーム(低温の炎)」と呼ばれる現象だった。ふつうの炎より低い温度で燃えるため、光が弱く、肉眼ではほとんど見えない。火は消えたように見えて、実は見えないまま燃えている。
NASAによると、ふつうの炎は燃えると二酸化炭素と水をつくるのに対し、クールフレームは一酸化炭素とホルムアルデヒドをつくる。出てくるものがそもそも違う。しかも無重力では、このクールフレームが地上より長く燃え続けることがわかった。地上では上昇気流がすぐにかき消してしまう弱い火が、流れのない宇宙ではしぶとく生き残るのだ。
「火が消えた」と思っても、実際には見えない火が静かに残っている。宇宙船の中でこれが起きたらと考えると、少し背筋が冷える。消火したつもりの火が、見えないまま有毒な一酸化炭素を出しながらくすぶっている――そんな状況は、閉じた宇宙船の中では笑えない。そして同時に、研究者がなぜわざわざ宇宙で火を燃やすのか、その理由にもつながってくる。
宇宙で火を燃やす理由は、地上のエンジンと宇宙船の安全
ここで少し立ち止まって考えてほしい。燃焼なんて、地上でいくらでも研究できそうなものだ。わざわざ宇宙まで持っていく意味がどこにあるのか。
答えは、さっきの上昇気流にある。地上では空気の流れが炎をかき乱し、燃焼の素の姿が見えにくい。無重力はその流れをきれいに消してくれる。邪魔な対流が消えた分、炎の中で何が起きているかを純粋に観察できる。またとない実験室というわけだ。
この研究がにらんでいる先は、大きく2つある。NASAはこれらの実験を「地上での燃焼をよりクリーンにし、宇宙をより安全にするため」のものだと位置づけている。
ひとつは地上側。クールフレームのような低温の燃焼は、車や発電機のエンジンの中でも起きている。その仕組みを正確につかめれば、燃料を無駄なく、排ガスの少ない燃やし方に近づけられる。毎朝あなたが乗る車のエンジンの効率にも、いつかつながる話だ。足元の通勤に、宇宙で燃やした小さな火が効いてくる。
もうひとつは宇宙側。宇宙船の中での火災は、乗組員にとって最悪の事態になる。逃げ場がなく、消防車も呼べない。だからNASAは、補給船が切り離されたあとの無人機の中で、わざと大きな炎を燃やす実験(Saffire)まで行ってきた。そこでは、空気の圧力を下げると炎の広がりが遅くなることなどがわかっている。材料の燃えやすさを調べるFLAREという実験には、日本のJAXAも加わっている。
こうした実験の土台になっているのが、NASAグレン研究センターがつくった燃焼専用の装置だ。100リットルの燃焼室を備え、2008年11月にスペースシャトル(STS-126)でISSへ運ばれた。宇宙で火を扱うための、ちゃんとした実験炉がちゃんと用意されている。
炎のとんがりは、重力の指紋だった
今夜ろうそくに火をつけたら、あの小さなしずく形をもう一度よく見てほしい。
あのとんがりは、炎が自分で描いた形ではない。熱い空気を上へ昇らせ、下から新しい空気を吸い込ませる――足元の重力が、炎にそっと手を添えて上へ引き上げている、その流れのかたちだ。炎のゆらめき一つにも、地球の重力がちゃんと写り込んでいる。
重力の手をふりほどいた宇宙では、同じ火が誰にも引っぱられず、音のない青い球になって芯の上にただ浮かぶ。しかもその球が消えたあとにも、目に見えない火がしばらく燃え続けている。
当たり前に見てきた台所の火の形が、実は400kmの上空で落ち続ける部屋の中とつながっている。