2029年4月13日、土曜の夜だ。
アフリカやヨーロッパの夜空に、見慣れない点が動く。3等星ほどの明るさで、ゆっくりと、でも肉眼で動いているとわかるくらいの速さで。5分も眺めれば、背景の星に対して少しずれたことに気づく。あれが小惑星アポフィスだ。
直径約370メートルの岩の塊が、地球から3万2000キロという距離を通り過ぎる。月までの距離の12分の1。静止衛星が浮かんでいる高度(3万6000キロ)より内側だ。こんな大きさの岩が、これほど近くを通るのは、観測史上初めてのことだという。
「危険小惑星」という名前のワケ
アポフィスには長いこと「潜在的危険小惑星」という肩書がついていた。2004年に発見されたとき、当初の軌道計算では2029年に衝突する可能性が2.7パーセントと出た。2.7パーセント、と聞いて「低い」と感じる人もいるかもしれないが、こと小惑星の話では異常に高い数字だ。通常、危険天体リストに入る確率は0.001パーセント以下で管理される。
天文学者たちは慌てて追加観測を重ねた。その結果、2029年は安全と確認されたが、今度は「2036年に地球を通過するとき、2029年の接近で軌道が変わっていたら」という新たな懸念が浮かんだ。それも2013年に否定された。現在は今後100年間の衝突リスクがゼロと確認されている。
ただ、「危険な岩」というイメージは残った。名前がそれを強化している。アポフィスとはエジプト神話の混沌の神の名前で、英語では「God of Chaos(混沌の神)」とも呼ばれる。研究者たちも最初はこの天体を信じることができなかったらしく、観測データが出るたびに「本当に大丈夫か」と確認を繰り返した。
2029年4月13日の夜に起きること
日本時間では4月14日の朝6時46分ごろが最接近の瞬間になる。つまり日本では最接近の少し前まで観測できる。最接近の瞬間は地平線下に沈んでしまうので、ヨーロッパやアフリカの人たちが観測の主役だ。
観測できる地域では、アポフィスは夜空を横切る星のような点として見える。速さが肝で、時速約2万7000キロで移動しているから、5〜10分眺めると動いていることが目視でわかる。普通の流星は1秒以下で消えてしまうし、惑星は数日見ないと動いたかわからない。小惑星がこの速さで肉眼に届く経験は、前例がない。
明るさは最大で3等星相当。これは北斗七星の星と同じくらいの明るさだ。都会の光がある場所でも、空がきれいに晴れていれば見える。20億人が同じ夜空を見上げられるとも言われている。
科学者たちが「この接近」に注目するもう一つの理由
観光的な話ばかりしてきたが、研究者の視点では全然別の興奮がある。
これだけ近くを大きな小惑星が通過するのは、「地球の引力がリアルタイムで岩石を変形させる場面を見られる」ということだ。地球には引力がある。近くを通る物体を引っ張る。アポフィスも例外ではなく、通過の前後で内部の岩盤が「潮汐力」によって動いたり、崩れたりする可能性がある。そのプロセスを接近前後で継続観測できる機会は、これまで一度もなかった。
もう一つがヤルコフスキー効果だ。これは太陽からの熱を受けた小惑星が、放熱の向きによってじわじわと軌道がずれていく現象のことだ。アポフィスの場合、この効果がどの程度かを正確に測れれば、2036年以降の軌道予測の精度が大幅に上がる。
ESAとJAXAが共同で計画しているRAMSESという探査機は、2029年の接近に間に合わせることを目標にアポフィスに向かう。接近のタイミングで一緒に観測しながら、できれば表面に降りることも視野に入れている。宇宙探査機が小惑星に随伴して、地球の引力が岩を変形させる瞬間を記録する、というのは、宇宙の歴史でもほぼ前例のない試みだ。
370メートルの岩って、どのくらいの大きさか
数字だけ聞くと「たかが370メートル」かもしれない。でも、東京タワーの高さが333メートルだ。つまりアポフィスは東京タワーより少し大きい。それが秒速7.4キロメートルで夜空を横切る。新幹線の最高速度が秒速90メートルくらいだから、その80倍以上の速さだ。
仮にこの岩が地球に落ちてきた場合、どうなるか。もちろん落ちないのだが、科学者たちは計算している。衝突エネルギーはTNT火薬換算で約11億トン。広島型原子爆弾の約7万発分にあたる。半径数十キロの範囲が壊滅し、大気中に舞い上がった粉塵が数年にわたって気候に影響する可能性がある。恐竜を絶滅させたチクシュルーブ衝突体(直径約10キロ)に比べれば小さいが、地域規模の壊滅には十分な大きさだ。
だからこそ、衝突しないとわかっている今、冷静に「どんなサイズか」を知っておくのは意味がある。恐怖をあおりたいのではなく、「あの光っている点が、東京タワーくらいの岩なんだ」と知って見上げるのと、何も知らずに見上げるのとでは、体験の密度がまるで違う。
「衝突しない」からこそ楽しめる
アポフィスが発見されたとき、世界中で「衝突するかもしれない」という恐怖報道が走った。2004年のことで、インターネットニュースがまだ荒っぽかった時代だ。結果的に衝突しないと証明されて、今では「むしろ安心して眺められる稀有な天体」に変わった。
衝突しないのがわかっているから、見に行ける。旅行して観測できる。研究者たちが探査機を送り込める。恐怖の対象だったものが、観測の対象になった転換は、惑星防衛という分野にとっても教科書的な出来事だった。
次にこれと同等の規模の小惑星がこれほど近くを通るのは、7500年後だという試算がある。7500年前は、人類がまだ農耕を始めたかどうかくらいの時代だ。それくらいのスパンの出来事が、2029年4月に起きる。
日本からどう見るか
最接近の瞬間は日本の地平線下に沈むが、前後の数時間は見えるはずだ。4月13日の深夜から14日の夜明け前にかけて、東の空に注目すると動く点が見える可能性がある。双眼鏡があれば確実に見つけやすくなる。
ただし、見え方は接近の前後で急激に変わる。最接近のタイミングに近いほど明るくなるが、通過は意外と速い。最も明るい状態が続くのは数時間程度で、その前後は望遠鏡でないと見えない暗さに戻る。つまりタイミングがけっこう重要だ。
日本では接近前の数時間しか観測できないから、最高条件で見たい人はヨーロッパやアフリカへ行くことになる。実際、天文ツアーを企画する旅行会社がすでに動き始めているという話もある。「小惑星を見に行く旅行」というのは、なかなかに贅沢で、なかなかに奇妙だ。
詳細な位置情報は2029年が近づいた段階でJAXAや国立天文台から案内が出るはずだ。3年後という話ではあるが、カレンダーに入れておいて損はない。
正直、個人的にいちばん気になるのは「肉眼で動いているとわかる小惑星を見た瞬間、どんな気持ちになるか」だ。流星でも惑星でもない、370メートルの岩が、ゆっくりと夜空を横切る。それを20億人が同時に眺めている。なんともいえない夜になりそうだと思う。
関連資料
アポフィスの接近についてはESA(欧州宇宙機関)が詳細を継続的に公開している。RAMSES探査計画に関する最新状況はESAのプラネタリーディフェンスのページで確認できる。