田中というのが、地味な男である。
測量の仕事を三十年やっていて、派手な現場はほとんどなかった。大型商業施設もダムも高速道路も縁がなく、もっぱら住宅地の区画整理と、地方自治体の細かい境界確認ばかりだった。なんとなく始めた仕事が、なんとなく三十年つづいた。
事務所は駅から十五分のビルの二階にある。看板のペンキは五年前から剥がれかけていて、直す予定もない。来月で閉める。
定年だ。
厄介なのは測量ノートだった。大学ノートに手書きで記録をつけていて、今年で七十四冊目になる。段ボール箱にして六つ。処分しなければ引き払えない。シュレッダーは昨日、事務所に運び入れた。
ちなみに、七十四冊のうち三十六冊が同じ場所の記録だった。緑町三丁目14番の2。三十年間ずっと更地の空き地で、持ち主は固定資産税だけ払い続けている。田中は月に一度そこへ行き、地面に測定杭を打ち、地盤の沈下量を記録した。頼まれたわけではない。最初の仕事で担当した土地で、なんとなく測りつづけた。
空き地にはいつの間にか近所の猫が住み着いていて、測量のたびに邪魔をした。三脚の脚に体をこすりつけてくるのだ。もっとも、田中はそれを嫌がったことがない。
その日、一冊目をシュレッダーに入れようとしたとき、電話が鳴った。
「あの、突然すみません。T大学の理学部で、惑星科学をやっている者なんですけど」
若い男の声だった。早口で、どうやら緊張しているらしい。
「来年……いえ、再来年か。2029年に小惑星が地球のすぐ近くを通るんです。ご存知ですか」
田中は知らなかった。事務所のテレビでニュースが流れていた気もするが、小惑星がどうのという話はよくわからない。
「それで、通過するときに地球の地殻がほんのわずかにたわむんです。潮汐力で。そのたわみを予測するのに、同じ地点の長期的な地盤沈下データがどうしても要るんですけど、えっと……日本中探して、三十年以上連続で月次の地盤記録が残っている地点が、ひとつしか見つからなくて」
田中はシュレッダーの横に積んだ段ボールを見た。
「……緑町ですか」
「はい。緑町三丁目14番の2です。田中さんのデータだけなんです」
たまたまだった。たまたま最初の現場だったから、たまたま測りつづけた。誰に頼まれたわけでもなく、報告書にする必要もなく、ただ月に一回、猫に邪魔されながら杭を打っていただけだ。三十年分の空き地が、宇宙の役に立つとは思わなかったのではないか。
「三十年分のデータ、いただけませんか」
田中はしばらく受話器を握ったまま黙っていた。壁にかかった測量免許のガラスに、ひびが一本走っている。
「……ありますよ。六箱」
電話を切ったあと、田中はシュレッダーの電源コードを、ゆっくり壁から抜いた。