向かいさんの名前を、私は知らない。
もう二十年、名前も知らない相手に、毎晩手を振っている。ミネというのが私で、この浮き家にひとりで住んでいる。夫が死んでから、ずっとだ。子どもは遠い星で所帯を持った。まあ、たまに便りは来る。
私の町は、まん中に大きな灯台がある。錨みたいに、どっしりと。家々はその灯台のまわりを、ゆっくり回っている。あんまりゆっくりなので、動いている気はしない。数年に一度、測り屋という若い人が来て、家の位置がずれていないか直していく。そういう町だ。
晩になると、灯台がすっと明るさを落とす。これを宵の鐘と呼ぶ。鐘が来たら、みんな晩の灯りを点ける。私も点ける。夫が使っていた古いランプに、油を足して。
窓の外を見ると、いつも同じ場所に、ぽっと明かりがともる。ずうっと向こうの、一軒の窓だ。私はそれを向かいさんと呼んでいる。
私が窓辺でランプを振ると、向こうの灯りも、ゆらゆら揺れて返す。ように見える。二十年、そうやって挨拶してきた。会ったことはない。行こうにも、あいだには何もない、ただの暗がりだ。もっとも、返すのが先か、私が振るのが先か、近ごろはなんだか、自分でもあやしい。
歳を取ると、返事より、返事を待つ時間のほうが長くなるらしい。向かいさんの灯りだけは、毎晩きちんと来てくれる。それでじゅうぶんだった。向かいさんも、ひとりなのかもしれない。そう思うと、なんとなく心強かった。
先だって、その測り屋が来た。若い男で、機械を窓に当てていた。
「奥さん、この家、二十年ぐらいでひと回りしてますね」と彼は言った。「ちょうどいい速さだ」
私は、向かいの窓を指さした。あの家とは古い付き合いでね、毎晩、灯りで挨拶するんですよ、と。
彼は、へえ、と外を見て、それから、ちょっと言いにくそうにした。
「あの……あの家もね、まん中の灯台を回ってるんです。うちと、おんなじ速さで。だから、いつも同じ場所で顔を合わせる。片っぽが、片っぽを回ってるわけじゃ、ないんですよ」
「はあ」
「二軒とも、灯台の子分みたいなもんで。同じ時計で暮らしてるから、宵の鐘で、同じころに灯りが点く。……たぶん、あっちも晩ごはんの灯りです」
返事じゃなかったのか。そう言いかけて、やめた。
「近づけないんですか」と、かわりに聞いた。
「近づこうとして動かすとね」彼は手のひらを、すっと横に滑らせた。「逆に、するっと、どっかへ行っちゃうんです。この間のまんまが、いちばん近いんですよ。奥さんとこと、あの家は」
測り屋は帰っていった。
その晩、宵の鐘が来ても、私はランプを点けなかった。油も足さず、暗いまま、窓辺に置いた。私が振らなくても、向かいさんは灯るのかどうか。試したかった。
手のなかのランプは、冷たいままだった。
向かいの窓が、ぽっと明るくなった。いつもの場所に、いつもの間をあけて、いつもの明るさで。暗いままの私の窓に、その灯りは、まっすぐ届いた。