太陽系最大の峡谷は、火星にある。
その名はバレス・マリネリス。全長4,000kmを超え、深さは最大7km、幅は600kmにも達する。地球のグランドキャニオンが全長446km、深さ1.8kmであることを考えると、そのスケール感がわかる。もし地球にこれが存在したなら、アメリカ大陸をほぼ横断する巨大な溝になる。
そのバレス・マリネリスの底に、130個以上の小火山が密集している地域が見つかった。そして同じ場所には、かつて水が流れていた証拠もある。マグマと水が出合った場所——それは地球では、生命が育まれる舞台になってきた。
太陽系最大の峡谷、その底に何があったのか
バレス・マリネリスは、火星の赤道付近に東西に走る巨大な地溝帯だ。成因は地球の峡谷とは違う。グランドキャニオンは川の侵食でできたが、バレス・マリネリスは地殻が引き伸ばされて裂け、陥没することで形成されたと考えられている。つまり最初から「割れ目」として生まれた場所だ。
その底を衛星から詳しく調べると、ただの岩盤が広がっているわけではないことがわかった。特定の区域に、形が整った小さな丘のような構造物が密集していた。コンピュータによる地形解析と熱放射データを組み合わせた研究によって、これらが火山活動でできた「シンダーコーン(噴石丘)」である可能性が高いと判明した。
130個以上が集まるこの地域は、表面の組成も周囲と異なる。特に含まれる鉱物の種類が、熱水——つまりマグマの熱によって温められた水——が関わった変成プロセスを経た痕跡を示していた。
正直なところ、これを最初に読んだとき少し驚いた。バレス・マリネリスは何十年も研究されてきた有名な場所なのに、これほど劇的な地形が底に隠れていたとは。峡谷の奥深さが、調査の目を遠ざけていたのかもしれない。
マグマと水が出合うとき、何が起きるのか
地球に目を向けると、マグマと水が出合う場所は「生命のゆりかご」になっている事例がある。
深海底には、熱水噴出孔と呼ばれる場所がある。海底から熱水が噴き出し、周囲の温度が数百度にも達する過酷な環境だ。光は届かず、圧力は凄まじい。それでも、チューブワームや熱水性細菌など、多様な生き物がそこに住んでいる。太陽光に頼らず、化学反応だけでエネルギーを得る生き物たちだ。
バレス・マリネリスの底で見つかった痕跡は、この熱水噴出孔と似た環境が、かつて火星にも存在していた可能性を示す。地下のマグマが水を温め、地表に熱水として湧き出す。その過程で、生命の材料になりうる化学反応が起きる。ここで生命が生まれなかったとしても、その痕跡——有機分子や特定の鉱物のパターン——が岩盤に保存されているかもしれない。
ただ、一つ注意が必要だ。「痕跡がある」と「生命がいた」はイコールではない。これはあくまで「生命が生まれやすい条件が揃っていた可能性がある場所」という話だ。
「古代の火星」と「生命誕生」のタイミングが重なる
火星の歴史を整理してみよう。
約40億年前、火星は今よりずっと温かく、湿っていたとされる。表面には液体の水が流れ、海や湖が存在していた可能性が高い。大気も地球に近い密度があったと考えられている。
それと同時期に、大規模な火山活動があった。火星最大の盾状火山・オリンポス山(高さ約25km、エベレストの約3倍)はこの時期に活動のピークを迎えた。バレス・マリネリス自体も、この頃の地殻変動の産物だ。
そして約35億〜30億年前にかけて、火星の磁場が弱まり、太陽風によって大気が剥ぎ取られていった。水は蒸発するか、地下に逃げた。現在の火星は、乾燥した砂漠の惑星だ。
問題はここだ。地球で生命が誕生したのも、だいたい40億年前前後とされている。つまり、古代の火星と地球は「ほぼ同じ時期に、ほぼ似た条件を持っていた」ことになる。地球では生命が誕生し、火星では(少なくとも今のところ)見つかっていない。その差を分けた理由の一つが、磁場の喪失と大気の消滅だ。
しかし、もし生命の萌芽が火星でも起きていたとしたら、その証拠はどこに残っているか。それがバレス・マリネリスの底のような、熱水活動があった場所だというわけだ。
どうやって「火山」だと見分けるのか
地上から確認できないのに、衛星データから小火山を特定する方法を少し説明しておこう。
まず地形データ。火星周回探査機の高精度レーダー高度計(MOLA)は、火星表面の凹凸を数メートル単位で計測できる。シンダーコーンは、山頂がくぼんだ「お椀を逆にした」形をしており、地形データからある程度判別できる。
次に熱慣性データ。岩石は砂より熱しにくく、冷えにくい。火山岩(溶岩)は特有の熱の持ち方をするので、赤外線カメラで夜間と昼間の温度差を計測すると、地表の岩石の種類がわかる。
さらに分光データ。火星観測衛星CRISM(コンパクト偵察用撮像分光計)は、表面の鉱物組成を色の違いで捉える。含水鉱物(水が関わって変質した鉱物)や硫酸塩(火山活動と関連する)の分布を把握できる。
今回の発見は、これらを組み合わせた解析によるものだ。人間の目では区別がつかないような微妙な違いを、複数のセンサーデータを重ね合わせることで浮かび上がらせた。
なぜ「バレス・マリネリスの底」が特別なのか
火星全体に火山の痕跡は多数ある。なのになぜ、バレス・マリネリスの底が特別視されるのか。
理由は2つある。一つは「深さ」だ。峡谷の底は、高台よりも気圧が高い。火星の大気は薄いが、底部では山頂より少しだけ濃い。液体の水が存在できる条件が、底部のほうが高台よりわずかに揃いやすい。
もう一つは「保存性」だ。峡谷の壁面は、古代の地層をそのまま保存する「本棚」のような役割を果たす。地質学者が地球の峡谷の壁面から過去の環境変化を読むように、バレス・マリネリスの壁面には火星の歴史が積み重なっている。底部で熱水が流れた痕跡があれば、その界面に化学的な記録が残っている可能性がある。
探査車が実際にここを走れば、どれほどの発見があるかわからない。現在の火星探査車(パーサヴィアランスなど)はジェゼロ・クレーターを調査しているが、バレス・マリネリスを狙った地上探査ミッションはまだ実現していない。
「そこに行くこと」の難しさ
とはいえ、バレス・マリネリスの底への着陸は、現在の技術では容易ではない。
深い峡谷は、着陸機にとって厄介な場所だ。峡谷の中では太陽光パネルへの日射が限られ、電力供給に制約が生じる。また、深い地形の中では通信衛星とのやり取りに遮蔽が生じる可能性もある。地形が複雑なため、着陸地点の選定も難しい。
それでも、科学的な魅力は大きい。生命の痕跡を探す場所として、熱水活動の証拠がある場所はジェゼロ・クレーターと同様に——あるいはそれ以上に——価値がある。
将来の有人火星探査を見据えると、バレス・マリネリスはいつか人間が降り立つ場所になるかもしれない。深い峡谷の底から見上げた火星の空は、地表から見るものとは全く違うはずだ。大気が少し濃く、岩の壁が何kmも垂直にそびえる。そこで、数十億年前の生命の痕跡を探す仕事をするとはどんな感覚だろう。
まとめ:生命探査の優先候補地として
バレス・マリネリスの底に見つかった130個以上の小火山と水の痕跡は、火星の生命探査を考えるうえで重要な手がかりだ。マグマと水が同時に存在した環境は、地球では生命が住む「熱水噴出孔」として知られている。
もちろん、「生命の痕跡がある」と結論づけるには、実際にサンプルを採取して分析する必要がある。衛星データから推測できることには限界があり、確認には現地調査が不可欠だ。
ただ、「探す価値がある場所」は確実に一つ増えた。宇宙探査は、まずどこを見るかを決めることから始まる。バレス・マリネリスは今、その候補リストの上位に名を連ねることになった。地球で生命が誕生したのと同じ時期に、火星でも似た環境が整っていた——その事実だけで、十分に胸が高鳴る。