火星の写真を見るたびに、不思議に思っていた。なぜ北と南でこんなに地形が違うのだろう。北はなだらかな低地が広がり、南はクレーターだらけの高地が続く。この非対称性が、長年火星研究者の頭を悩ませてきた。
そして2026年4月、Nature 誌に掲載されたカリフォルニア工科大学の研究が、その問いに対する有力な答えを提示した。火星の北半球には、かつて星の3分の1を覆う広大な海があった。その証拠が、地形に「指輪」のように残っているというのだ。
バスタブリングとは何か
研究チームのアブダラ・ザキとマイケル・ラムが注目したのは、「大陸棚」に似た地形だ。
地球で言えば、大陸の縁辺部にある水深200メートルくらいまでの浅い平坦地のこと。海水の下で何百万年もかけて堆積物が積み重なることで形成される。だから大陸棚があるということは、そこに長期間にわたって海があったという証拠になる。
この地形を正直に言い当てているのが「バスタブリング」という俗称だ。お風呂の湯を抜いたあと、浴槽の内側に残る水垢の輪のこと。海が干上がったあとに海岸線の跡が地形として残る様子が、まさにそれに似ている。
ザキらが火星の地形データを解析したところ、北部低地の縁辺部に沿ってこの棚状の平坦地形が存在することが確認された。幅は数百キロメートルに及ぶ場合もある。高さにして約1,800〜3,800メートル下(火星の仮想的な基準面から)のあたりに分布している。
しかも棚の位置に川デルタの痕跡が重なっていた。川が海に流れ込む場所に必ずできる三角形の堆積地形だ。川デルタが棚地形に揃って並んでいるということは、かつてここに「川が流れ込んでいた海岸」が実在したことを強く示唆している。
海があった証拠は以前からあったのでは
ここで「火星に水があった話は聞いたことがある」と思う人も多いだろう。実際、火星の表面には無数の水流による浸食痕があり、ミネラルの分析結果も液体の水の存在を示す。2001年のMARSオデッセイ以来、地下に大量の氷が埋まっていることも確認されている。
問題は、「あった水が一時的なものか、長期的なものか」という点だ。これまでの証拠だけでは「大雨が降って一時的に水たまりができた」程度のシナリオも排除できなかった。
短い雨季が繰り返す程度の水は、大陸棚を作らない。大陸棚が形成されるには最低でも数百万年のスパンで水が存在し続ける必要がある。つまり棚地形の発見は、「長期にわたる本物の海があった」という証明になる。
それまでの証拠は「水が流れた痕跡があった」という状況証拠の積み重ねだったが、今回の棚地形は「海岸が安定して存在した」ことを直接示す地形証拠だ。研究者の間では「これまでで最も説得力のある古代海洋の証拠」と評価されている。
大陸棚が「証拠」になる理由
少し掘り下げてみたい。なぜ棚地形がそれほど強い証拠になるのか。
海岸線そのものは、実は証拠として弱い。海面は気候や地殻変動によって数十〜数百メートルの幅で上下するため、ある時点の海岸線が地形に残っていても「一時的な水位変動」の可能性が排除できない。
ところが大陸棚は違う。棚は海水の下で堆積物が地道に積み重なることで作られる。数百万年以上の時間をかけて少しずつ厚みを増していく構造だ。嵐や増水では作れない。岩石の化学変化を伴いながら形成されるため、形成過程に長期の水の存在が刻まれている。
今回確認された棚地形は、そのスケールや分布から見て「一時的な水」で説明できるものではない、というのが研究チームの結論だ。地球の大陸棚と比較した場合でも、形状や規模が矛盾しない。
さらに重要なのが「風化への耐性」だ。火星の北部低地は数十億年にわたって火山活動や風による浸食にさらされてきた。にもかかわらず棚地形の輪郭が今も識別できるということは、地形の規模が相当なものだったことを意味する。
海はどこへ消えたのか
では、かつて北半球の3分の1を覆っていたとされる海は、いったいどこへ消えてしまったのか。
答えは複数の要因が重なったものとされている。
まず磁場の消失だ。約40億年前、火星の内部活動が弱まり、地球のような全球的な磁場が消えてしまった。磁場は太陽風(宇宙から降り注ぐ荷電粒子の流れ)から大気を守る盾のような役割を持っている。これが失われたことで、火星の大気が太陽風に剥ぎ取られ始めた。
大気が薄くなると気圧が下がる。気圧が下がると液体の水は沸点が下がり、蒸発しやすくなる。蒸発した水蒸気は大気上層で太陽紫外線に分解され、宇宙空間に逃げていった。
現在の火星大気圧は地球の約0.6%。この環境では液体の水は表面に存在できない。かつての海の水のほとんどは宇宙へ逃げ、残りは地下に凍り付いた。大気中には水蒸気としてわずかに残るのみだ。
水が消えるまでにかかった時間は数億年単位とされる。バスタブリングが形成されたのは約36億年前と推定されており、ちょうど磁場の消失と火星の「乾燥化」が進んだ時代に重なる。
地形が語る「生命探査の地図」
この発見が持つ最大の意義は、生命探査のターゲット選定を変えうることだ。
地球では、生命の化石や有機物の痕跡が最もよく見つかるのは「かつての海岸」付近の堆積物の中だ。海岸は栄養が集まり、微生物が繁栄しやすい場所だった。川が運んできた有機物が海へ流れ込む三角州(デルタ)は特に有望な場所とされている。
火星の場合、バスタブリングの位置と川デルタの痕跡が重なるエリアが、まさにその「地球で化石が多く見つかるような場所」に相当する。
欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ローザリンド・フランクリン」は2028年後半に打ち上げ、2030年に火星着陸を予定している。この探査機は表面だけでなく、地下2メートルまで掘削して試料を採取する能力を持つ。目標地点として検討されているエリアが、バスタブリング付近の北部低地縁辺部と重なっているのは偶然ではない。
NASAのキュリオシティや中国の祝融号も同様に、かつて水があったと推定されるエリアを優先して走行してきた。今回の発見は、そのターゲット設定の根拠をより具体的にしてくれる。
地球でもそうだったように
最後に少し想像してみてほしい。
36億年前の火星を上から見たとしたら、北半球の大部分は青い海に覆われていた。川が流れ込む河口には三角州が広がり、波打ち際には砂浜のような地形があった。もしかすると、水中の岩の表面には微生物のコロニーが広がっていたかもしれない。
それが今は全部、乾き切った赤茶けた岩地になっている。でも、海岸線の輪郭だけは地形に刻まれたまま残っている。
地球でも同じことが起きた時代がある。今の海岸線の岩場には、何億年も前の古代の海の堆積物が露出しているところがある。そこから化石が見つかり、生命の歴史が読み取られた。
火星でも、バスタブリングという「残された海岸線」が、かつての生命の痕跡を守り続けているかもしれない。それを読み取るには、今は岩のサンプルが必要だ。だから探査機が向かう。
研究者たちも、長年この証拠を探していた。あるいは逆に言えば、証拠は最初から地形の中に刻まれていて、私たちが気づくのを待っていたのかもしれない。