人類が最後に月面へ立ったのは1972年。それから半世紀ぶりに人が月へ降りる前に、機械だけの着陸機が、先に何度も降りることになっている。
人ではなく、機械が。何十もの観測機器を積んで、繰り返し。
これは有人月面基地の「前段」だ。いわば、人を失敗できない場所に立たせるための、長い無人の助走なのだ。
人が行く前に、機械だけで17回
NASAが進めている「CLPS(商業月ペイロードサービス)」という仕組みがある。ざっくり言うと、月まで荷物を運ぶ仕事を民間企業に発注する制度だ。
NASAの公式ページによれば、この配送契約はこれまでに17件、5つの企業に発注されている。運ばれるNASAの観測機器は60個以上。契約対象の企業は13社にのぼり、契約総額は2028年11月までで最大およそ26億ドルにもなる。
この17という数字、最初に見たときは多すぎないかと思った。人を1回送るための下見に、機械の便を17回。
でも、順番を追っていくと、その多さにはちゃんと理由がある。NASAはこれらを、人類を再び月へ送るアルテミス計画の一部と位置づけている。目指すのは月の南極付近に構える基地だ。人が住むための場所を、人が着く前に、機械の目で何度も確かめておく。それがこの助走の正体である。
着陸は、いまだに失敗する
白状すると、僕はずっと「月着陸なんてアポロの時代に終わった技術」だと思っていた。半世紀も前にできたことが、今さら難しいわけがない、と。
これが、思い違いだった。
近年、月を目指した民間の着陸機は成功も失敗もしている。無事に降りたものもあれば、着地の瞬間に傾いたり、うまく降りられなかったりした機体もあった。月には空気がないので、パラシュートは使えない。エンジンの逆噴射だけで、岩やクレーターだらけの斜面に、自力でそっと降りるしかない。
難しさは、それだけではない。月の上空には、地球のGPSのように位置を教えてくれる仕組みがない。頼れるのは、あらかじめ積んできた地図と、着陸直前に自分のカメラで見た地形の照合だけだ。しかも狙う南極付近は、太陽が低いために影が長く伸び、岩なのかくぼみなのか見分けづらい。
しかも通信には片道でおよそ1.3秒の遅れがある。地球から38万km離れた月まで、電波が光の速さで届くのに、それだけかかるからだ。着陸のような一瞬の勝負を、地球の管制官がリアルタイムで操縦することはできない。機械が自分で判断して降りるしかない。
なぜ機械にそこまでやらせるのか、ちょっと考えてみてほしい。人を乗せた機体が着地でひっくり返ったら、それは事故では済まない。だからまず、無人機で「狙った場所へ、無事に、正しい姿勢で降りる」ことを何度も実証しておく。着陸精度の証明そのものが、下見の重要な目的なのだ。
なぜ南極の、しかも「穴の縁」なのか
では、どこに降りるのか。NASAが狙いを定めているのは月の南極付近だ。理由は、水の氷にある。
月の南極には、太陽の光が一度も差し込まない「永久影」のクレーターがいくつもある。地軸がほとんど傾いていないので、深い穴の底には日が届かないまま何十億年も過ぎた。そこは氷点下200度を下回る、太陽系でも指折りの寒さだ。その冷たい闇の底に、水の氷が残っていると考えられている。
面白いのはここからだ。
その氷の穴のすぐ隣に、逆にほとんど日が沈まない尾根がある。南極付近の高い縁は、太陽が地平線近くをぐるりと回るため、長い時間ずっと光を浴び続ける。片側は太陽を見たことのない氷の闇、すぐ足元は日の絶えない明るい尾根。この極端な隣り合わせが、基地には都合がいい。
個人的に、この「隣り合わせ」の風景が一番好きだ。もしあなたがその尾根に立ったら、背中には何日も沈まない太陽、目の前のクレーターの底には一度も朝が来ない暗闇が広がっている。水の当て(影の氷)と、電気の当て(日の当たる尾根)が、歩いて行き来できる距離に同居しているわけだ。
氷は、掘ってみないと当てにできない
ただし、氷が「あるらしい」と「あるから使える」の間には、大きな隔たりがある。
これまで氷の手がかりは、主に月の周りを回る探査機が上空から集めてきた。だが上空からの観測は、地面のどこに、どんな形で、どれくらいの量の氷があるかまでは教えてくれない。氷なのか、氷を含んだ土なのか、掘り出して確かめないと当てにはできない。
そこでNASAは、地面を実際に掘る機器を無人機に積んで送り込む。たとえばPRIME-1という実験は、月面にドリルを差し込み、掘り出した土に含まれる成分を分析して、水があるかどうかを地面の上で直接調べる計画だ。
ここで少し立ち止まってほしい。人が月に住むなら、飲み水も、酸素も、ロケットの燃料になる水素も、できれば現地の水から作りたい。地球から水を運ぶと、1リットルでも途方もない打ち上げ費用がかかるからだ。キャンプに例えるなら、水を全部背負っていくか、現地に湧き水があるかで、行ける日数がまるで変わる。だから「現地の水が本当に使えるのか」は、基地が成り立つかどうかを左右する。その一点を、人が着く前に機械の手で掘って確かめておく。
電気と通信を、先に置いておく
氷のありかが分かっても、それだけでは人は住めない。電気と通信という、暮らしの土台が要る。
月の1日は地球の約29.5日にあたる。つまり、昼が2週間ほど続いたあと、夜も2週間ほど続く。ふつうの場所では、この長い夜の間、太陽電池はまるで役に立たない。南極の「日の沈まない尾根」が狙われるのは、氷の近さだけでなく、この長い夜をやり過ごせる電気の当てになるからでもある。
通信も同じだ。片道1.3秒の遅れは、スマホのビデオ通話でたまに感じる、あの微妙なラグの比ではない。往復すれば会話は常に数秒ずれる。しかも南極の谷底や裏側は、地球が地平線に隠れて電波が直接届かない場所もある。だからNASAは、中継の通信網や電力の仕組みを、人が着く前に先回りして整える構想を示している。
実際、こうした「月で暮らすための土台づくり」は、もう机上の話ではない。人が持ち込む機材が月の環境をどう汚しうるか——たとえば地球由来の微生物を運び込まないか——といったことまで、着く前に調べる対象になっている段階なのだ。
失敗できない場所への、長い助走
こうして並べてみると、17回という数字が急に腑に落ちてくる。着陸精度、氷のありか、電気と通信の当て。そのどれか一つでも当てが外れたまま人を送れば、取り返しがつかない。だから機械に何十もの機器を持たせ、繰り返し先に行かせる。
月は、地球の空にいつも浮かんでいる、いちばん身近な天体だ。今夜も見上げれば、たぶんそこにある。研究の現場としても、月は今まさに動いている。月を回るNASAの周回衛星は、月面にぶつかったロケットの上段が刻んだ新しいクレーターをとらえたこともある。
だから人が初めて南極の尾根に立つとき、そこはもう手つかずの未知の土地ではない。どこが硬いか、どこに氷が眠り、どこなら安全に降りられるか。無人機が一つずつ書き込んだ「下見の地図」の上に、人の足あとが重ねられる。
その見慣れた光の南の端で、いま何十もの機械が、人のために黙々と穴を掘り、氷を嗅ぎ分け、着地の姿勢を確かめている。人類の次の一歩は、その無人の下見が積み上がった先に、ようやく置かれる。