月でたったひとりの番をするトノ婆さんは、その朝も高すぎる戸棚に手を伸ばしていた。踏み台の上で、「この、大男めが」と毒づいている。あしたの窓で地球ゆきの便が出る。十二年ぶりの里帰りだ。さっさと荷を積んで、この意地の悪い家とはおさらばしたかった。

月の家には、番人がひとりしか置けない。空気も水も畑も、きっちり一人ぶんしか回らないからだ。だから番人が代わるときは、来る便が着くまえに、去る便が発たなくてはならない。二つの船が地上でそろうことは、けっしてない。トノは十二年前にここへ着いたが、前の番人の顔も、声も、名も知らなかった。会いようがなかったのである。

引き継ぎといえば、家そのものだった。去る者は、次に来る者のために、家をひととおり整えてから発つ。畑に種をまいておく。水をためておく。湯をわかせるようにしておく。そういう決まりだった。もっとも、相手がだれなのかは、番人には知らされない。送り状にのっているのは、番号と、目方だけ。

トノがこの家に着いた日、隅に古びた踏み台がいくつも積んであった。よほど物持ちのいい大男が前にいたんだろう、とそのときは思った。棚も、鏡も、外套かけの鉤も、なにもかもがうんと上についていたからだ。小柄なトノは、以来ずっと踏み台のやっかいになってきた。十二年、のぼっては、おりた。

さて、こんどは自分が去る番である。トノは決まりどおり、次の番人のために家を整えにかかった。畑に種をまき、水をため、湯の道をたしかめる。それから、しばらく手を止めて考えた。次に来るのは、どんなやつだろう。

わざわざ月くんだりまで番に来るくらいだ。どうせ、がっしりした若い衆にちがいない。背の高い、開拓者ふうの男。トノはなんとなくそう決めてかかった。だったら、と、下ろしてあった棚を、もとの高い位置へきちんと戻してやった。鏡も上げた。鉤も上げた。「せいぜい高いとこ、使いな」。ふん、と鼻を鳴らして。

「トノさーん」。壁の中継箱から、若い管制の声がのんびり降ってきた。「次の窓、あと二時間です。積み込み、お早めにー」

「わかってるよ」

「次の番人さんとは、すれちがいですねえ。いつもどおり」

「会えなくて、けっこうさ」トノは荷をしばりながら言った。「顔も知らない相手に、なんの義理があるもんかね」

それでも、戸口を出るまぎわに、トノはふと足を止めた。手には、十二年つきあった、自分の折りたたみ踏み台があった。

隅の山を見た。古びた踏み台が、いくつも、いくつも積んである。——物持ちのいい大男。そう思っていた。だが、もしそうなら、なぜ棚はあんなに高い。大男に踏み台なんぞ、いるものか。

トノは、しばらく、その山を見ていた。それから、なんだかおかしくなってきた。あの高い棚をこしらえたやつも、きっと小さな婆さんだったのだ。次に来るのはがっしりした若い衆だと、勝手に決めてかかった、小さな婆さん。そのまた前も。そのまた前も。みんな、来もしない巨人のために棚を上げ、みんな、踏み台にのぼっては、おりた。会わないから、勘ちがいだけが引き継がれていく。

トノは、自分の踏み台を、山のてっぺんに積み足した。棚は高いまま、下ろしてやらなかった。そのほうが、うんとおかしい気がしたのだ。かわりに、走り書きを一枚、踏み台にはさんだ。「これ、置いてく。前のやつも、たぶん、大男じゃなかったよ」

便は、時間どおりに月をはなれた。黒い空をのぼっていく窓の向こうに、ちょうど、おりてくる船がすれちがった。むこうの窓に、小さな影が見えた。背伸びをして、こちらへ手を上げている。脇に、折りたたみの踏み台を、ひとつかかえて。

トノも、手を上げた。声はとどかない。とどいたところで、言うことなんぞ、ひとつしかないだろう。せいぜい、のぼったり、おりたりしな。

巨人のためにこしらえた家の隅で、小さな踏み台がまたひとつ、山を高くした。