火星探査機は打ち上げから半年ほどで目的地に着く。ところが、地球にもっと近いはずの水星へ向かった探査機は、8年もかけてようやく到着しようとしている。

その探査機の名前はベピコロンボ。ESA(欧州宇宙機関)とJAXA(宇宙航空研究開発機構)が共同で送り出した水星探査機で、2018年10月に打ち上げられた。そして2026年11月、いよいよ水星を回る軌道に入る予定だ。

近いのに、着くのが遅い。この矛盾のような話には、宇宙ならではのちゃんとした理由がある。

水星は近所なのに、なぜ8年もかかるのか

まず距離の感覚を整えておこう。太陽から地球までは約1億5000万km、この距離を1天文単位と呼ぶ。水星はその内側、太陽にいちばん近い惑星だ。地球から見れば火星と同じくらいの「ご近所」で、決して遠い相手ではない。

なのに、到着まで8年。打ち上げのとき生まれた赤ちゃんが、小学2年生になってしまう時間である。

この数字、最初は打ち間違いかと思った。距離だけを見れば、まっすぐ飛べば数か月で届いてもよさそうなものだ。実際、探査機を水星の近くまで「運ぶ」だけなら、そんなに時間はかからない。

問題は、運ぶことではない。水星に捕まることのほうなのだ。

水星は地球の近所にあるのに、ベピコロンボは太陽をぐるぐる回りながら8年かけて到着する

太陽に向かって「落ちる」と、探査機は加速してしまう

ここがこの話のいちばん面白いところだ。

地球から水星へ向かうというのは、太陽に近づいていくということでもある。太陽は圧倒的に重い。その重力に引かれて内側へ進むと、探査機はどんどん速度を上げていく。

坂道を思い浮かべてほしい。ボールを坂の下に転がすと、下るほど勝手に速くなる。太陽の重力も同じで、内側へ落ちるほど探査機は加速する。水星の軌道は、いわばこの坂のかなり下のほう。たどり着くころには、探査機は猛烈な速さになっている。

速すぎると、どうなるか。水星の弱い重力では、その勢いを止めきれない。せっかく水星のそばまで来ても、探査機はそのまま脇を通り過ぎて、また太陽のほうへ吸い込まれていってしまう。

つまり水星へ行く旅は、「進む」より「止まる」ことのほうがはるかに難しい。到着とは、水星の重力にちょうど捕まえてもらえる速さまで、自分を減速させることなのだ。

太陽に近づくほど重力の井戸を落ちるように加速し、水星の軌道では速くなりすぎて通り過ぎてしまう

ブレーキのない宇宙で、惑星を「壁」に使う

では、どうやって減速するのか。

宇宙にはブレーキがない。空気がないので、パラシュートも効かない。速度を落とすには、進む向きと逆にエンジンを噴かすしかないが、それに使う燃料を全部積んでいくと、探査機はとんでもなく重くなってしまう。

そこでベピコロンボが頼るのが、フライバイ(惑星のそばを通過し、その重力で軌道と速度を変える技術)だ。

面白いのはここからだ。惑星のわきをうまい角度でかすめると、その重力に少しだけ引っぱられて、探査機は速度を奪われる。惑星に運動エネルギーをちょっと預けて、自分は遅くなる、というイメージに近い。近づく角度と向きを精密に選ぶことで、加速にも減速にも使い分けられる。燃料をほとんど使わずに軌道を変えられる、宇宙飛行の妙技である。この重力アシストという技は、ボイジャーやはやぶさなど、遠くを目指してきた探査機が昔から使ってきた常套手段でもある。ただ、ふつうは遠くへ届くための加速に使う。減速のためにこれほど何度も繰り返すのは、水星ならではの事情なのだ。

ただし、1回では全然足りない。1回のフライバイで削れる速度はわずかで、太陽の重力で得た加速を打ち消すには、何度も何度も繰り返す必要がある。狙った角度をわずかに外せば、その後の何年ぶんもの計画がずれてしまう。だからフライバイのたびに軌道は細かく調整される。

ベピコロンボが8年かけて行うフライバイは、合計9回。内訳は、地球で1回、金星で2回、そして目的地である水星そのもので6回。最初の水星フライバイは2021年10月、6回目にあたる最後のフライバイは2025年1月に行われた。同じ惑星の前を、数年おきに何度もかすめ続けてきたことになる。水星のそばを6回も素通りしながら、そのたびに少しずつブレーキをかけ、7回目にしてやっと捕まえてもらう、という気の長い旅なのだ。

地球1回・金星2回・水星6回、計9回のフライバイで少しずつ減速していく

水星を6回も通り過ぎておきながら、そのどれでも降りられない。ここまで来て、あと少しが遠い。宇宙のスケールでは、近さと難しさは別物なのだと思い知らされる。

1本の列車で運ばれる、2機の探査機

ベピコロンボが変わっているのは、旅の仕方だけではない。

この探査機、実は2機の周回機が合体した姿で飛んでいる。ESAが作ったMPO(水星表面探査機)と、JAXAが作った「みお」(水星磁気圏探査機、MMO)。この2機に、飛行中の推進を担当する転送モジュール(MTM)が加わり、3つが縦に連結した状態で運ばれている。打ち上げ時の総重量はおよそ4100kg。小型の乗用車を3台まとめて宇宙へ放り上げたくらいの質量である。

いわば、複数の車両をつないだ1本の列車だ。長い航海のあいだは互いに支え合い、水星に着いたところで切り離される。

なぜ2機なのか。役割が違うからだ。MPOは水星に近い軌道から、表面の地形や内部の様子を細かく調べる。一方の「みお」は、もっと外側を回りながら、水星が持つ磁場とそのまわりの環境を観測する。

同じ惑星でも、地面を見る目と、磁場を見る目は別のところに置いたほうがいい。二つの軌道から同時に見ることで、はじめてつかめる姿がある。だから2機を一度に運び、到着後にそれぞれの持ち場へ散らばらせる。8年の旅は、この2つの視点を同時に届けるための旅でもある。

推進担当のMTMと2機の周回機が連結して飛び、水星到着後に分離してそれぞれの軌道に入る

2026年11月、8年ぶりに水星に「捕まる」

そして2026年11月。9回目のフライバイを終えたベピコロンボは、ついに水星の重力に捕まり、周回軌道へ入る予定だ。腰を据えた科学観測が始まるのは、2027年の初めごろとされている。

水星は、太陽系のなかでも謎の多い惑星だ。太陽のすぐそばで焼かれているのに、日の当たらない極のクレーターには氷があるのではないか、と考えられている。灼熱の惑星に氷、というのは妙な取り合わせだが、これもベピコロンボが確かめようとしているテーマの一つだ。

さらに、なぜこんな小さな惑星が磁場を持っているのか。表面にぽつぽつと空いた、奇妙な浅いくぼみは何なのか。答えの出ていない問いが並んでいる。太陽に近すぎて観測しづらいこの惑星を訪れた探査機は、これまでごくわずかしかいない。だからこそ、腰を据えて回り続ける2機が届けるデータには、多くの研究者が期待を寄せている。

想像してみてほしい。もしあなたがベピコロンボに乗っていたら、金星や水星のわきを9回もかすめる、めまいのするような8年間を過ごしたことになる。そのすべては、たった一度、正しい速さで水星に捕まるための準備だった。

近さと遠さがねじれる場所

地図の上では、水星は地球のすぐ隣にある。けれど探査機にとっては、太陽の重力に逆らって減速し続けなければたどり着けない、太陽系でもっとも「着きにくい」惑星の一つになる。

近い、が易しいとは限らない。距離と、そこへ到達する難しさは、宇宙ではあっさり食い違う。ベピコロンボの8年は、その食い違いをまるごと引き受けた時間だった。

2026年11月、夜空の低いところで太陽を追いかけるように瞬く小さな星の周りで、8年ぶりに減速を終えた列車が、ようやく2両を切り離そうとしている。