2026年5月15日、NASAの探査機 Psyche(サイキー)が火星の上空4,500 km を秒速約7 km で通過した。

打ち上げのとき、この探査機に「火星に行く」という命令はなかった。火星はあくまで経由地だ。本当の目的地は、火星と木星の間にある金属小惑星プシケ。そこまでの距離は約4億 km。火星との出会いはただの寄り道ではなく、計算された加速装置だった。

このとき探査機が受け取ったエネルギーは、燃料ゼロ。代わりに火星の重力と公転速度を「借りた」。

これを重力アシスト(グラビティ・アシスト)、あるいはスイングバイと呼ぶ。

Psyche探査機と火星スイングバイの概略図

「引力を借りる」とはどういうことか

ロケットを宇宙に飛ばすとき、燃料の量は直接コストに響く。燃料が重いから燃料が必要で、その燃料を積むためにさらに燃料が要る。この悪循環を「チョロフの不等式」(正確にはツィオルコフスキーのロケット方程式)と呼ぶが、要するに「宇宙で加速するのはやたら難しい」ということだ。

だから宇宙機が遠い惑星へ行くには、できるだけ惑星の力を借りたほうがいい。重力アシストはその発想を具体化した技術だ。

仕組みは直観に反している。惑星の引力に引き寄せられ、惑星をぐるりと回って離れると、速度が上がって戻ってくる。なぜか。

惑星は止まっていない。太陽の周りを公転している。探査機が惑星に近づくとき、惑星の重力に引かれて加速し、惑星を回りながら公転方向に押し出される。惑星から離れた後、探査機は惑星の「動き」を分けてもらった分だけ速くなっている。

エネルギーは保存される。惑星は探査機に渡した分だけわずかに公転が遅くなる。だが惑星の質量は探査機の何兆倍もあるから、その遅れは宇宙の物差しでもゼロに等しい。

重力アシストの仕組み

数字で見るとこうなる

Psyche の場合、火星を通過したことで得た速度は毎秒約4 km。秒速4 km とはどのくらいかというと、東京から大阪の直線距離を約2秒で走れる速さだ。普通の高速道路を走る車より1000倍以上速い。

これを燃料でまかなうとなると、搭載燃料の大幅な増量、つまり機体の大型化が必要になる。だが Psyche が払ったのは、精密な軌道設計と、火星との会合タイミングを狙い続けた数年分の運用コストだけだ。

重力アシストが「タダ乗り」と呼ばれる所以はここにある。もっとも、タダではなくて惑星の公転エネルギーを使っているのだが、惑星が気づかない程度の量だから、ほぼタダという感じではある。

接近距離は非常に重要で、遠すぎると引力が弱くてほとんど加速しない。近すぎると大気の抵抗を受けたり、最悪の場合、惑星に引き込まれる。Psyche の場合、4,500 km という距離は慎重な計算の産物だった。

50年の歴史 ── マリナー10号からボイジャーまで

重力アシストを初めて惑星間航行に使ったのは、1974年のマリナー10号だ。

金星に接近して重力アシストを受け、水星へと向かったこの探査機は、スイングバイを「実用化」した最初の例になった。当時の技術者たちが「わかった、理論は合っている」と確信した瞬間だったらしい。

その後、1977年に打ち上げられたボイジャー2号は、この技術の真骨頂を見せた。木星・土星・天王星・海王星を次々スイングバイして外側の惑星を次々に探査した「グランドツアー」は、重力アシストなしには実現不可能なミッションだった。ボイジャー2号は今も飛び続けており、太陽系を出て星間空間に入った数少ない人工物の一つだ。

2004年打ち上げのESAのロゼッタ探査機も面白い事例だ。地球スイングバイを3回、火星スイングバイを1回行って、彗星チュリュモフ・ゲラシメンコへたどり着いた。目的地が「ほぼ静止した小天体」なので、たどり着くのに複数の惑星をわたり歩く必要があった。

日本のはやぶさ2も地球スイングバイを使って小惑星リュウグウへ向かい、サンプルを地球に届けた。帰還後も延長ミッションで別の小惑星に向かっており、その際も軌道修正に重力アシストの概念が活きている。

重力アシストを使った主な探査機

目的地:鉄の塊の惑星、プシケ

では Psyche はなぜこんな面倒な旅をするのか。目的地の小惑星プシケが、それだけ奇妙で貴重な天体だからだ。

直径は約280 km。岩石でも氷でもなく、主成分は鉄とニッケル——地球の「核(コア)」と同じ組成だと言われている。

地球の中心部に何があるか、人類はまだ直接見たことがない。深さ6,400 km の核まで掘り下げる技術は存在しない。おそらくこれからも長い間、存在しないだろう。

プシケはその代わりになるかもしれない。かつて岩石惑星だった天体が、何度もの衝突で外殻を失い、中心部だけが剥き出しになって残ったのだと考えられている。もしそうなら、プシケを調べることは、地球の核を間接的に観察することに等しい。

探査機 Psyche は2029年8月に到着予定で、軌道投入後に様々な観測を行う計画だ。金属組成、磁場の有無、地形の詳細——これらのデータが届いたとき、地球内部の理解が一段階深まるかもしれない。

金属小惑星プシケのデータ

軌道設計という職人技

重力アシストは「惑星がそこにいる」タイミングに依存する。惑星は動いている。探査機が到着したとき、惑星が正しい位置にいなければアシストにならない。

だから打ち上げウィンドウは非常に限られている。Psyche の場合、2023年10月が最も効率的なタイミングだった。数週間ずれると、火星との会合が成立しなくなる。

何年もかけて軌道を設計し、そのタイミングに合わせて探査機を整備し、ロケットを準備する。巨大な計算と、ほんのわずかな時間の一致。宇宙探査というのは、かなりの部分が「段取り」で決まる仕事らしい。

Psyche が火星を通過した5月15日、それは何年もの計算が報われた日でもあった。

減速にも使える ── アシストの逆側

重力アシストは加速だけに使うわけではない。逆向きに惑星に近づけば、速度を落とすこともできる。

探査機が惑星の「進行方向の前側」を通過すれば加速、「後ろ側」を通過すれば減速する。どちらを使うかは、どこへ行きたいかによって決まる。

太陽に近い水星や金星を目的地とする場合、いったん速度を落として内側の軌道に落とさなければならない。ESAとJAXAが共同で送り込んだベピコロンボという探査機は、水星にたどり着くために複数回の惑星スイングバイで丁寧に速度を削っている最中だ。水星は太陽に近いため強い引力に引き込まれやすく、到着前に適切な速度まで落とす必要がある。燃料で減速するのではなく、惑星を使って「ブレーキ」をかけているのだ。

宇宙では加速も減速も、周りにある惑星の引力を使いこなせる者が、より遠くへ、より少ない燃料で行ける。


2029年8月、探査機が鉄の惑星に到着したとき、地球の核の謎が少し動くかもしれない。そのとき火星は、すでにずいぶん前に役目を終えて、何も知らずに公転を続けているだろう。

燃料代を払わず、惑星の引力をそっと借りて、人類は少しずつ遠くへ行く。