2026年度、一機の探査機が火星の月に降り立ち、砂をひとつかみだけ持ち帰ろうとしている。

たったそれだけの砂で、この月がどこから来たのかという数十年来の論争に決着がつく。しかもうまくいけば、火星本体には一度も触れないまま、火星そのもののかけらまで一緒に採れるかもしれない。

計画の名前はMMX。JAXAが進める、火星の月フォボスを狙ったミッションだ。

火星には月が2つある、しかも妙に近い

火星には月が2つある。大きいほうがフォボス、小さいほうがダイモスという。とはいえ大きいといっても、フォボスの直径は平均で22kmほど。フルマラソンのおよそ半分の長さしかない、ジャガイモのようないびつな岩のかたまりだ。もう一方のダイモスはさらに小さく、直径は10kmあまり。どちらも、丸くて大きい地球の月とは似ても似つかない。

面白いのは、その回っている場所だ。フォボスは火星の表面からわずか6,000kmほどの、ぞっとするほど低い軌道を回っている。地球と月の距離が約38万kmだから、その60分の1以下ということになる。

この距離感、最初はうまく飲み込めなかった。

フォボスは火星表面から約6,000km、地球と月の60分の1以下の近さで回っている

近いと、公転も速くなる。フォボスが火星を一周する時間はおよそ7時間39分。火星が一回自転する時間より短いので、フォボスは火星の空を西から昇って東へ沈む。地球の月とは逆向きに、しかも一日に2回以上も空を横切っていく。

もしあなたがフォボスの表面に立ったとしよう。重力は地球のおよそ2000分の1しかない。野球のボールを本気で投げれば、それだけでフォボスの重力を振り切って、ボールは宇宙の彼方へ飛んでいってしまう。

こんな中途半端に小さくて、妙に近い月が、いったいどうやってできたのか。

捕まった小惑星か、火星のかけらか

この問いには、長いあいだ2つの答えが張り合ってきた。

ひとつは「捕まった小惑星」説。フォボスは表面が暗く赤っぽくて、光の反射のしかた(反射スペクトル)が、太陽系の外側にある小惑星によく似ている。だから、もともとよそを漂っていた小惑星が、たまたま火星のそばを通ったときに重力に捕まった、という筋書きだ。

ただ、この説にはひとつ引っかかる点がある。フォボスの軌道は、火星の赤道面にきれいに沿ったほぼ円軌道なのだ。ふらっと通りかかった天体を捕まえたのなら、軌道はもっといびつになりそうなもの。整いすぎている。

フォボスの起源には捕獲小惑星説と巨大衝突説があり、それぞれ説明できない点を抱えている

もうひとつが「火星のかけら」説。大昔、火星に大きな天体がぶつかって、飛び散った破片が火星のまわりで集まって月になった、という考えだ。地球の月ができた仕組みと同じ理屈で、これならあの整った円軌道もすんなり説明できる。

ところが今度は、色が引っかかる。破片が火星由来ならもっと火星寄りの見た目になりそうなのに、フォボスは小惑星に似ているのだ。

どちらの説も、決め手のひとつを説明できて、別のひとつを説明できない。遠くから色や軌道を測っているだけでは、いつまでも引き分けのままだ。

答えは、土そのものを持ち帰ること

望遠鏡や探査機のカメラで外から眺めるだけでは、この勝負はつかない。表面の色は、宇宙空間にさらされて長い年月のうちに変わってしまう(宇宙風化)。だから見た目だけで産地を当てるのは、そもそも当てにならない。ならば土そのものを地球に持って帰って、実験室で徹底的に調べればいい。それがMMXの発想だ。

MMXはまずフォボスの「準衛星軌道(QSO)」という、フォボスと並んで飛ぶような軌道に入る。そこからフォボスとダイモスを観測し、フォボスに着陸して表面の砂を採取し、地球へ持ち帰る。JAXAによれば、火星圏の天体から物質を持ち帰るのは世界で初めての試みになるという。

ではなぜ、土なら決着するのか。

鍵は同位体(どういたい=同じ元素で重さだけが違う原子)の比率だ。物質がどこで生まれたかによって、この比率は微妙に変わる。いわば材料の産地を示す指紋のようなもので、砂を精密に測ればフォボスの材料がどこ由来かが読める。宇宙風化で色は化けても、原子の中身までは化けない。だから土は嘘をつかない。

持ち帰った砂の同位体が小惑星型なら捕獲説、火星の材料が混じれば衝突説を支持する

もし砂が小惑星型の組成なら、フォボスはよそから来た岩、つまり捕獲説に傾く。逆に火星の材料が混じっていれば、衝突で飛んだ破片、つまり「火星のかけら」説が有力になる。研究チームは、この一握りの砂で長年の議論に片をつけられると考えている。

日本の探査機が小惑星の砂を持ち帰るのは、これが最初ではない。はやぶさ2が小惑星リュウグウの砂をカプセルで届けたニュースを覚えている人も多いだろう。MMXは、あの積み重ねの延長線上にいる。

重力ほぼゼロの岩に「降りる」という難題

とはいえ、これがまた簡単ではない。

さっき書いたとおり、フォボスの重力は地球の2000分の1ほどしかない。着陸というより、そっと「置く」に近い。探査機が勢いよく触れれば、跳ね返って宇宙へ逃げていきかねない。地面をつかむものが、ほとんどない世界なのだ。

MMXはこの微小重力に合わせて、フォボスと並走しながら慎重に降りる計画を立てている。ふわりと接地して、表面の砂をすくい取ったら、また静かに離れる。数秒の作業に、ミッションの成否がかかっている。着陸に先立って、小さなローバー「IDEFIX(イデフィクス)」を先に地表へ降ろす予定もある。これはドイツのDLRとフランスのCNESが用意したもので、人が降り立つ前に地面の硬さや様子を確かめる役割を担う。

白状すると、フォボスをただの通過点だと思っていた。実際にはNASA、CNES、DLRといった各国の機関が加わる、国際的なプロジェクトだ。小さな岩にこれだけの手間をかけるのは、それだけ持ち帰る価値があると見込まれているからにほかならない。

では、その価値は起源の判定だけなのか。

おまけに、火星本体のかけらが混じっているかもしれない

個人的に一番好きなのは、ここからの話だ。

思い出してほしい。フォボスは火星の表面からたった6,000kmのところを回っている。ということは、火星に隕石が落ちて破片が宇宙へ飛び散ったとき、その一部がフォボスの表面に降り積もっていてもおかしくない。研究者は、フォボスの砂に火星本体の物質が混ざっている可能性を指摘している。

これが本当なら、話はもう一段面白くなる。

火星そのものに着陸してサンプルを持ち帰るのは、莫大な費用と技術がいる。ところがフォボスの砂を採るだけで、火星の表面から飛んできたかけらが、ついでに手に入るかもしれないのだ。しかもそれは、遠い昔の火星の姿を封じ込めた物質かもしれない。火星に生命の育つ環境があったのか、その手がかりにつながる可能性もある。

月ひとつの砂が、月の起源と、そのとなりの惑星の過去を、同時に語り出す。

落ちていく月を、今のうちに読む

もうひとつ、急ぐ理由がある。

フォボスは近すぎるがゆえに、潮汐(ちょうせき=天体どうしが引っぱり合う力)の作用で、少しずつ火星へ近づいている。1年に数センチというごくわずかな歩みだが、これはずっと続く。研究者は、遠い未来にフォボスが砕けて火星のまわりに環をつくるか、あるいは火星へ落ちていくと見ている。

数千万年先の話とはいえ、フォボスは永遠の月ではない。落ちていく途中の岩なのだ。

夜空を見上げると、火星は赤い点として肉眼でも見つかる。その点のすぐ脇を、フルマラソン半分ほどのいびつな岩が、一日に何度もぐるぐると回っている。2026年度、そこへ降りた探査機が採った一握りの砂が、やがて地球の実験室に届く。その砂が語り出す出どころを、私たちはもうすぐ知ることになる。