ドレッシングの瓶をどれだけ振っても、少し置けば油と酢はまた上と下に分かれる。学校の化学では「似たものは似たものに溶ける」と教わる。ところが土星の衛星タイタンの地表では、この当たり前が静かに崩れている。
地球なら決して手を組まない分子どうしが、そこでは1つの結晶になる。しかもそれは、地球のどこを探しても見つからない鉱物だ。
「似たものは似たものに溶ける」が通じない場所
まず舞台の温度から。タイタンの地表はおよそ94ケルビン、つまり約マイナス179℃だ。地球の一番寒い記録が約マイナス89℃だから、その倍以上冷えている。
この寒さでは、物質のふるまいが根っこから変わる。地球では空気中を飛んでいる気体が、タイタンでは液体になって湖をつくる。実際、探査機カッシーニは液体メタンとエタンの湖や海を確認している。
さて、化学の授業を思い出してほしい。水と油が混ざらないのは、分子どうしの「相性」が違うからだ。相性の似た者どうしはよく溶け合い、違う者どうしは分かれる。これを英語で like dissolves like(似たものは似たものに溶ける)と言う。
正直、これを初めて知ったとき、化学の授業に戻って先生に一言添えたくなった。相性が悪いはずの分子が、条件しだいで固く結びつくというのだから。
共結晶――2種類の分子が1つの結晶に同居する
ここで鍵になるのが「共結晶(コクリスタル)」という言葉だ。少し噛み砕こう。
ふつうの結晶は、1種類の分子や原子がびっしり並んでできている。塩なら塩、砂糖なら砂糖。ところが共結晶は、2種類以上の分子が決まった割合で、1つの結晶格子の中にきちんと同居している状態を指す。
ただ混ぜただけのごちゃ混ぜとは違う。分子Aと分子Bが、規則正しい位置関係でセットになって並ぶ。この「規則正しさ」が、共結晶とただの混合物を分ける境目だ。
じつは共結晶は地球でも作られている。薬の分野では、溶けにくい薬の分子をあえて別の分子と共結晶にして、体に吸収されやすくする工夫がある。錠剤の中で、この仕組みが働いていることもある。
つまり共結晶そのものは珍しくない。問題は、タイタンでは「何と何が」組むか、である。
ベンゼンとエタンが、氷点下でだけ手を組む
NASAジェット推進研究所(JPL)の研究チームは、タイタンの地表とほぼ同じ温度・圧力を実験室で再現し、分子の組み合わせを試した。そこで見つかった主役の1つが、ベンゼンとエタンの共結晶だ。
面白いのはここからだ。研究の報告によると、彼らはまず約130ケルビンで結晶を育て、約90ケルビンまで冷やして、放射光を使ったX線でその構造を突き止めた。できあがった結晶は、ベンゼンの分子がつくる格子の「すき間(チャネル)」に、エタンの分子が収まる形をしていた。
さらに、この共結晶がタイタンの地表条件でどれくらいの速さでできるかも調べられている。報告では、液体エタンの中でベンゼンが析出し、およそ18時間ほどで結晶化が完了する見積もりだという。地質のスケールで言えば、あっという間だ。
ベンゼンもエタンも、タイタンの大気の中で自然に作られる有機分子として知られている。空から降り、地表で出会い、そして地球にない鉱物になる。
なぜ地球ではこの鉱物ができないのか
では、なぜ同じ2分子が地球では結晶にならないのか。答えは、それぞれの分子が「どんな姿でいるか」にある。
エタンの融点は約マイナス183℃(約90ケルビン)。タイタンの地表温度は、それよりほんの数度だけ高い。だからエタンは、かろうじて液体でいられる。一方、地球の室内は約22℃。エタンはとっくに気体で、つかまえる間もなく飛んでいってしまう。
地球でのエタンは天然ガスにも含まれる身近な気体で、容器に閉じ込めなければ手元には留まらない。ところがタイタンでは、その同じ物質が液体となって地面を流れ、湖を満たしている。
ベンゼンのほうも見てみよう。ベンゼンの融点は約6℃。タイタンではカチカチの固体、地球の室内ではさらさらの液体だ。
整理すると、こういうことになる。地球では「気体のエタン」と「液体のベンゼン」で、そもそも固体と液体が出会う舞台がない。タイタンでは「液体のエタン」の中に「固体のベンゼン」が浸かり、少しずつ溶け出して共結晶として沈む。温度が変わるだけで、役者の役どころがまるごと入れ替わる。
もう1つ、寒さそのものも効いている。分子はつねに熱で細かく震えていて、温度が高いほど激しく暴れる。ベンゼンとエタンを引き寄せ合う力はもともと弱いので、常温ではその震えに負け、規則正しい並びを保てない。タイタンの寒さは、この震えをぎりぎりまで抑え込む。弱い結びつきでも壊れずに残れるからこそ、共結晶は低温でだけ安定していられるわけだ。
ここで少し想像してみてほしい。もしあなたがタイタンの湖畔に立てたら、足元の液体はガソリンのような炭化水素で、岸辺には見たこともない白い結晶が霜のように張りついているはずだ。地球の常識で「これは何の鉱物だろう」と考えても、答えは図鑑に載っていない。
タイタンの湖の縁に残るもの
この話は、実験室の中だけでは終わらない。タイタンの地形とつながってくるからだ。
カッシーニは、タイタンの湖のまわりに明るい堆積物を見つけている。北の極域にあるクラーケン海は、日本の国土に匹敵するほど広い液体の海だ。地球の塩湖が干上がった縁に塩が白く残るように、タイタンの湖でも、溶けていた成分が液体の減少とともに析出して溜まる。こうした堆積物は「蒸発岩(エバポライト)」になぞらえて語られる。
研究チームは、ベンゼンとエタンの共結晶のような物質が、こうした湖の縁の堆積物の正体の候補になりうると考えている。空から降った有機分子が最終的にどんな固体になって地面に残るのか――その一部を、実験室の氷点下が説明しはじめている。
2005年には、着陸機ホイヘンスがタイタンの地表に降り立った。その場所は湿った有機物の地面で、着陸の熱でメタンがしみ出す様子も報告された。空から降った分子が地表でどんな固体に姿を変えるのか。共結晶の研究は、その見取り図の空白を少しずつ埋めつつある。
白状すると、私はタイタンの「鉱物」と聞いて、ずっと氷か岩の話だと思い込んでいた。実際には、そこには炭素と水素でできた、地球の地質学が名前を持たない結晶が広がっているのかもしれない。
鉱物は、場所によって顔を変える
鉱物という言葉を、私たちは無意識に「地球のどこかにあるもの」として使っている。石英、長石、方解石――図鑑に並ぶのは、地球の温度と圧力で安定する結晶ばかりだ。
考えてみれば、水でさえタイタンでは役どころが違う。約94ケルビンの世界では、水の氷は花崗岩のように硬い「岩」としてふるまい、大地の骨組みをつくる。私たちが蛇口からひねる水と同じ物質が、あちらでは山の材料になっている。その硬い氷の上に、有機分子の共結晶が塩のように積もる――そんな地質が思い描かれている。
タイタンに立てば、地球の図鑑は通用しない。約94ケルビンという条件が主役になり、地球では一瞬も存在できない共結晶が、当たり前の「石」として足元に転がる。何が鉱物になれるかは、その星の寒さが決めている。
ドレッシングの油と酢が分かれるのを見たら、思い出してほしい。同じ2つの液体でも、10億km以上離れた寒い衛星の上では、まったく別の顔をして固まっているかもしれない、ということを。