火星には月が2つある。フォボスとディモス。聞いたことはあっても、姿を思い浮かべられる人は少ないと思う。どちらも歪んだジャガイモみたいな形をしていて、月とはまったく似ていない。

そのうちのフォボスに、日本の探査機が会いに行く。

JAXAが進めている「MMX(エムエムエックス)」というミッションだ。打ち上げ予定は2026年秋。つまり今年。順調に行けば、今読んでいるこの記事の数ヶ月後にロケットが飛ぶ。

目的地はフォボスの表面。ねらいは、その上の砂を10g以上、地球に持ち帰ること。たった10gと思うかもしれない。だが、この10gの砂が、太陽系のいくつかの大きな謎にケリをつける可能性を持っている。

フォボスの砂を持ち帰るMMXミッションのイメージ

そもそもフォボスって何者なのか

火星のまわりを、フォボスは地球の月よりずっと近い距離で回っている。高度はおよそ6000km。火星地表から見上げれば、4時間ほどで空を横切っていくのが見えるはずだ。

サイズは差し渡し約22km。山手線一周がだいたい34kmだから、それより小さい。形は球ではなく、じゃがいもをぐにゃっと潰したような不規則な塊だ。

色は黒っぽい。アルベド(反射率)は0.07ほどしかなくて、太陽系の中でも特に暗い天体に分類される。要するに「炭でできた小惑星みたいに見える」のがフォボスだ。

ここで違和感を持ってほしい。火星は赤褐色の岩石惑星で、フォボスは黒い炭っぽい塊。親と子で見た目が違いすぎる。実はこれが、フォボスの起源をめぐる議論の出発点になっている。

100年解けていない問い

フォボスはどうやって火星の周りを回ることになったのか。説は大きく2つある。

ひとつめは「捕獲説」。もともと小惑星帯か、もっと遠い場所で生まれた小天体が、火星の重力につかまって衛星になったというストーリーだ。フォボスが暗くて炭素質に見えるのは、外側の太陽系から来た物質だから、と説明できる。

ふたつめが「巨大衝突説」。若い火星に大きな天体がぶつかって、その破片が軌道上に飛び散り、やがて固まってフォボスになった、というシナリオ。地球の月ができた仕組みと似ている。

フォボスの起源 捕獲説と巨大衝突説

どちらも筋が通っているから話がややこしい。捕獲説は色や形をうまく説明できる。一方で「あの軌道にうまく捕まるのは難しい」という力学的な弱点がある。衝突説は軌道のきれいさを説明できるが、組成が火星本体とちょっと似てなさすぎる。

100年近く議論されてきたが、決着がつかない。望遠鏡や周回探査機での観測には限界があるからだ。

ここでMMXが効いてくる。砂を地球に持って帰れば、ラボの中で精密に組成や同位体比が測れる。捕獲された小惑星なら炭素質コンドライトに近い指紋が出る。衝突の破片なら火星の岩石に近い指紋が出る。一発で答えが出る、というわけだ。

なぜ火星本体じゃなくて衛星に行くのか

ここで「だったら火星そのものに着陸して土を持ち帰ればいいじゃん」と思った人。鋭い。NASAも同じことを考えていて、Mars Sample Returnという別計画を進めている。

だがMMXがフォボスを選んだのには、技術的にも科学的にも筋がある。

技術的には、フォボスは重力がとても弱い。およそ5.7 mGal、地球の0.0006%程度。ふわっと触れるだけで離着陸できる。これは「はやぶさ2」がリュウグウで磨いた技術の延長線上にある。日本がいちばん得意な領域だ。

火星本体に降りるとなると話が違う。大気がある。重力もそれなりに強い。降下中の制御も、上がる時の燃料も、桁違いに難しくなる。

科学的にも理由がある。フォボスの表面には、火星から飛んできた砂が混じっていることがほぼ確実だからだ。

火星に行かなくても火星の土が手に入る

これは少し意外な話だと思う。

火星の表面には、隕石が頻繁に衝突してきた歴史がある。大きなクレーターを作るような衝突が起きると、地表の岩石は爆発的に砕け、その一部は宇宙空間まで吹き飛ぶ。

吹き飛んだ岩のうち、一部は火星圏から逃げ出して、地球まで飛んでくる(これが火星隕石だ)。だが、残りはしばらく火星の周りをふらふらして、いずれフォボスやディモスにふりかかる。

シミュレーション研究によれば、フォボスの表面の数%は、火星から飛んできた物質で覆われているとされる。何億年も前のものから、比較的新しいものまでが、層をなして堆積している。

つまりフォボスの砂を分析すれば、フォボス自身の正体だけでなく、火星のさまざまな時代の地表サンプルも一緒に手に入る。「火星本体に降りずに火星を調べる」という、欲張りな2段構えになっている。

MMXが解く3つの問い

5年がかりの長旅

ミッションの工程をざっとなぞってみる。

2026年秋、種子島宇宙センターからH3ロケットで打ち上げられる予定。探査機は3つのモジュール(往路推進、探査、帰還)が合体した構成で、ちょっと「組み体操」みたいな格好をしている。

火星圏に到着するのは、打ち上げから1年弱経った2027年ごろ。フォボスの周りを回りながら、表面を詳しく観測していく。重力場、地形、組成。どこに着陸すれば安全で、しかも科学的に面白い砂が採れるかを見極める時間だ。

その後、2回の着陸を計画している。1回目で表面に降りて、コアラがユーカリの葉をつまむみたいに、表面の砂を吸い上げる。それを保管してまた離陸し、数ヶ月後に別の地点でもう1度。地点を変えることで、フォボスの「均一さ・不均一さ」もチェックできる。

採取が終わると、帰還モジュールが地球に向けて出発する。約1年かけて戻り、2031年にカプセルがオーストラリアに着地する予定だ。回収されたカプセルは相模原のJAXAの施設に運ばれ、世界中の研究者が分析に着手する。

MMXのミッション工程

5年。長い。でも考えてみれば、はやぶさ2の地球帰還が2020年だったから、それから10年ちょっとで、また日本の探査機が遠い天体の砂を持ち帰ることになる。なかなかすごいテンポだ。

国際協力でつくる「火星圏ステーション」

MMXはJAXAが主導する計画だが、単独プロジェクトではない。NASA、ESA、フランスのCNES、ドイツのDLRなどがそれぞれ機器や技術を持ち寄っている。

ESAは深宇宙通信用のトランスポンダや増幅器、地上アンテナのサポートを担当。フランスとドイツは共同でローバーを提供していて、これがフォボス表面に降ろされ、自走しながらその場で観測することになっている。アメリカは中性子・ガンマ線分光計などで、表面組成の遠隔観測を担う。

ひとつの探査機の中に、各国の技術がパズルのようにはまっている。表向きは「日本の火星衛星探査」だが、中身は国際共同事業だ。

宇宙開発はかつて国家威信のショーケースだった時期もあったが、最近の太陽系探査はこういうスタイルがふつうになっている。費用も負担も大きいから、得意分野を持ち寄る方が合理的なのだ。

「答えが出る」という体験

筆者がこのミッションでいちばん面白いと思うのは、「100年論争に決着がつくかもしれない」というポイントだ。

天文学の話題は、しばしば「まだわからない」「諸説ある」のままで終わる。それはそれで科学の正直さなのだが、読み手としては少し物足りなさが残る。

MMXは違う。サンプルが帰ってきて、ラボで測定すれば、フォボスがどこから来たかにはっきりした答えが出る。「捕獲された小惑星でした」あるいは「火星にぶつかった天体の破片でした」と、結論が言える。

しかもその結論は、火星圏という特殊な場所がどう作られたか、水や有機物が太陽系の中をどう旅したか、といった、もっと大きな問いにも波及する。10gの砂が、教科書を一行書き換える可能性がある。

打ち上げまで、あと半年ほど。順調に行けば、種子島の空に大きな炎が登り、日本のロケットが火星に向けて飛んでいく。その瞬間を、できれば一緒に見ていたい。

打ち上げ前の今のうちに、フォボスという「名前は知ってるけど顔は知らない月」のことを、少しだけ気にかけておくのも悪くないと思う。