火星には月が2つある。そのひとつは、差し渡し22キロメートルほどの、いびつなジャガイモのような岩のかたまりだ。

この月は火星の空を1日に3回横切る。しかも、西から昇って東へ沈む。

名前はフォボス。2026年10月、日本の探査機がこの奇妙な月をめざして飛び立つ。狙いはひとつ、砂を一つかみ持ち帰ることだ。

1日に3周する、西から昇る月

地球の月は、空を一周するのにほぼ1日かかる。ゆっくり東から昇って西へ沈む、あの見慣れた動きだ。フォボスはまったく違う。

NASAによれば、フォボスは火星を1日に3回まわる。火星本体が1回転する間に、月のほうが3周も追い越してしまう。だから火星の地面から見ると、フォボスは西の空から昇り、数時間で東へ沈んでいく。

この数字、最初は誤植かと思った。月が惑星を追い越すなんて、地球の常識では起きないことだ。

なぜこんな芸当ができるのか。答えは、フォボスが火星のすぐそばを回っているからだ。近い軌道ほど速く回る。フォボスは太陽系のどの月よりも、自分の惑星に張りついて回っている。

火星のすぐそばを西から昇りながら1日3周する小さな月フォボス

大きさも風変わりだ。フォボスは丸くない。差し渡し22キロメートルといえば、東京の山手線がすっぽり収まるくらいの、都市ひとつぶんの岩だ。表面にはスティックニーという巨大なクレーターがあり、その幅はおよそ9.7キロメートル。月の直径の半分近くもある。

一歩間違えばフォボス自体が砕けていてもおかしくない、そんな傷跡を抱えた岩が、火星のすぐ横を猛スピードで回っている。ではこの変な月は、そもそもどこから来たのか。

「捕まった小惑星」か「ぶつかった破片」か

ここが、この記事でいちばん面白いところだ。フォボスの出身地について、研究者の意見は真っ二つに割れている。

ひとつは「捕獲説」。もともと太陽系の外側にあった小惑星が、たまたま火星に近づき、その重力に捕まってしまった、という考え方だ。フォボスの黒っぽく赤みがかった見た目が、遠くの小惑星によく似ていることが根拠になっている。

もうひとつは「巨大衝突説」。大昔、何か大きな天体が火星に激突し、そのとき飛び散った破片が寄り集まってフォボスになった、という筋書きだ。地球の月も似たような衝突で生まれたと考えられており、火星でも同じことが起きたのではないか、というわけだ。

フォボスは遠くの小惑星が捕まったのか、火星への衝突で飛び散った破片が集まったのか

どちらも、それらしく聞こえる。困ったことに、遠くから眺めているだけでは、どちらが正しいか決め手がない。同じ黒っぽい岩でも、遠い故郷から来たのか、火星のかけらなのかで、意味はまるで変わってくる。

これは、写真を1枚だけ見せられて「親子かどうか当ててください」と言われるようなものだ。顔つきが似ている気はする。でも本当に確かめたければ、写真ではなく、細胞そのものを調べるしかない。

望遠鏡の写真では、味までわからない

では、なぜ今まで決着しなかったのか。探査機や望遠鏡で、フォボスはもう何度も撮影されてきたのに。

理由は、色や形からわかることに限界があるからだ。フォボスの表面が反射する光の色あいは、遠くの小惑星のようでもあり、火星由来の岩のようでもある。どちらとも読めてしまう。研究チームは、この曖昧さを「現物を手に入れないと消えない」と考えている。

白状すると、私も長いあいだ「これだけ探査機が行っているのだから、成分くらいわかっているだろう」と誤解していた。実際には、遠くから光を測るのと、砂粒を実験室で分解して調べるのとでは、得られる情報の細かさが桁違いなのだ。

岩に含まれる元素の比率、とくに酸素などの「同位体」(同じ元素でわずかに重さが違う仲間)の比率は、天体ごとに指紋のように違う。これは地球に持ち帰り、精密な装置で測って初めて読み取れる。

写真をいくら眺めても、料理の味まではわからない。ひと口食べてみて、はじめて素性がわかる。フォボスの砂を持ち帰るというのは、その「ひと口」を取りに行くことなのだ。

では、誰がどうやって取りに行くのか。

三つに分かれて飛ぶ探査機、MMX

その役目を担うのが、JAXAの火星衛星探査機MMX(Martian Moons eXploration)だ。2026年10月20日、種子島宇宙センターからH3ロケットで打ち上げられる予定になっている。

MMXは大きく三つの部分に分かれている。火星まで運ぶ推進の部分、フォボスを調べて砂を採る探査の部分、そして採った砂を地球へ届ける帰還の部分だ。旅の各段階で、役目を終えた部分を切り離しながら進んでいく。

計画では、2027年に火星圏へ到着する。そこから約3年かけてフォボスとダイモス(火星のもうひとつの月)を観測し、フォボスに着地して10グラム以上の砂を採取する。2030年に火星を離れ、2031年度に地球へ帰る。砂を収めたカプセルは、オーストラリアで回収される予定だ。

MMXは2026年打ち上げ、2031年度に10グラム以上の砂を地球へ届ける

10グラムと聞くと拍子抜けするかもしれない。小さじ2杯ほどの、手のひらに乗る量だ。けれどその一つかみで、長年割れなかった論争に答えが出る。量ではなく、本物かどうかがすべてなのだ。

日本には、小惑星イトカワやリュウグウから砂を持ち帰った「はやぶさ」「はやぶさ2」の経験がある。遠くの小天体に着き、かけらを採り、地球へ帰す。その積み重ねの上に、今度は火星の月が乗っている。この探査にはNASAやESA(欧州宇宙機関)なども加わり、着地を助ける小型ローバー「イデフィックス」も運ばれる。

とはいえ、フォボスに「降りる」というのは、言葉ほど簡単ではない。

重力がほとんどない星に降りる

フォボスは小さすぎて、重力がほとんどない。地球の重力の、ごくわずかしかない世界だ。

もしあなたがフォボスに立てたら、地面を軽く蹴っただけで数メートル浮き上がり、なかなか落ちてこないだろう。力いっぱいボールを投げれば、そのまま宇宙へ飛んでいってしまうかもしれない。足元の岩は、しがみつく相手というより、そっと寄り添う相手に近い。

だから「着陸」という感覚とは少し違う。猛スピードで回る岩にそっと横づけし、離れていかないよう慎重に触れる、という作業になる。イデフィックスが先に地表を調べ、安全に降りられる場所を探すのは、そのためだ。

想像してみてほしい。足を踏ん張ることもできない岩の上で、頭上を見上げれば、赤い火星が空の半分を覆っている。地球の月から見る地球よりも、はるかに大きく、そして近い。

面白いのはここからだ。そこまでして今フォボスへ急ぐのには、もうひとつ理由がある。この月は、いつまでもそこにあるわけではない。

消えていく月から、砂をすくう

フォボスは、少しずつ火星に近づいている。NASAによれば、その速さはおよそ100年で1.8メートル。潮の満ち引きと同じ潮汐(ちょうせき)の力が、この月を内側へ内側へと引き寄せているのだ。

フォボスは100年で約1.8mずつ火星に近づき、やがて砕けて環になる

このまま行けば、フォボスはおよそ5000万年後に火星へ落ちるか、その前に潮汐の力で砕け、火星をぐるりと囲む環になると考えられている。土星の環のような輪が、いつか火星にもできるかもしれない、というわけだ。

つまりMMXは、いずれ消える運命の月から、その素性を記録しに行く。手遅れになる前の、貴重な立ち会いでもある。

砂そのものが答えを持っている。捕まった小惑星なら、火星とは違う遠い故郷の指紋が出る。ぶつかった破片なら、火星によく似た指紋が出る。どちらに転んでも、火星という惑星が昔どんな衝突をくぐってきたのか、という物語につながっていく。

2031年度、オーストラリアの砂漠にカプセルが降りてくる。その中の一つかみの砂は、やがて砕けて環に変わるフォボス本体よりも長く、地球の実験室の棚に残りつづける。