「兄ちゃん、その壁、ゆれてるよ」
台所の戸口を指さして、勇二が言った。寛太はひやりとした。ゆれている壁のうしろに、あられの缶がある。今しがた隠したばかりだった。よその星から来た、高いやつだ。給料日に、つい一缶だけ買った。
重いものを壁ぎわに置くと、うしろの壁が水みたいにゆれる。この団地は、そういう場所だ。なんでも、重いもののそばでは光がすこし曲がるらしい。だから、かくしごとはたいていバレる。もっとも、団地の壁は元からうっすら波打っている。だから住人はたいてい、ゆらぎを「壁のせい」にしている。
「ああ、それか。ゆうべもゆれてたな。古いんだよ、この壁」
寛太はとぼけた。勇二は「ふうん」と言って、テレビのほうへ向き直った。
弟の勇二は、三年前から兄の家に転がりこんでいる。家賃は一度も入れない。ちなみに寛太は、それを三年きっちり数えている。そのくせ勇二は、うまいものをにおいで見つける。だから寛太は缶を隠した。弟に食われる前に、自分でぜんぶ食う。そのつもりだった。
その晩、寛太が風呂に入っているあいだに、勇二があっさり缶を見つけた。戸口の壁のうしろだ。ふたを開けて、二枚食べた。うまかった。
「このまま食ったら、へった分でバレるな」
勇二は缶を、押し入れのふとんのおくへ押しこんだ。これで、なくなったと思わせておける。
翌朝、寛太は戸口の壁を見た。ゆれていない。缶がない。「あいつ、ぜんぶ食いやがった」。寛太は舌打ちした。ところが昼すぎだ。押し入れの前を通ると、そこがゆれている。
「……なんだ。こいつ、自分の缶、べつに隠してやがるな」
寛太は押し入れを開けた。ふとんのおくの缶から、三枚食べた。しかえしのつもりだった。そして弟にバレないよう、こんどは冷蔵庫のうしろへ移した。
こうして、缶は家じゅうを渡り歩いた。戸口から押し入れへ移り、冷蔵庫のうらへ移り、げた箱の上へ移った。壁も床も、あちこちが順ぐりにゆれた。
「勇二のやつ、いったいいくつ缶をため込んでるんだ」
寛太はひとりごちた。勇二は勇二で、口をとがらせていた。
「兄ちゃん、けちなくせに、隠れて何缶も食ってやがる」
二人とも、自分だけは相手にバレていないと信じていた。信じるというより、信じたかったのだろう。ゆらぎは家じゅうを移っていった。それでも、ふしぎと、いちどに二つはゆれなかった。どちらも、そこには気づかなかった。
ひと月がたった、日曜の朝。げた箱の上で、缶はとうとうからになった。
先に見つけたのは勇二だった。からの缶をつかんで、茶の間へ乗りこむ。
「兄ちゃん! 何缶も隠して、ずるいよ! おれの分は!?」
「はあ? おまえこそ、おれのあられ、ぜんぶ食っただろうが。しかも自分のは別に隠して……」
言いかけて、寛太は口を止めた。缶を、まじまじと見た。よその星から来た、高いあられ。ふたのへこみまで見おぼえがある。給料日に一缶だけ買った、あの缶だった。
缶は、はじめから一つきりだったのだ。
二人はひと月ものあいだ、たった一缶のあられを追いかけ合っていた。家じゅうを回して、なかよく分けて食っていたのだ。おたがい、相手が何缶も隠していると思いこんだまま。
「…………」
「…………」
その週の給料日。寛太はこっそり、新しい缶を一つ買って帰った。玄関で、手さげをさげた勇二とばったり会った。勇二の手さげからも、同じ缶の角がちらりとのぞいていた。
二人は、さっと目をそらした。そしてその晩、二人は同じ壁の右と左に、それぞれ缶を隠した。
壁に、ゆらぎが二つならんで咲いた。