安藤硝子店は、火星のクレイトン地区で三年間、客がほぼ来ない店である。
安藤というのが、この店の主人だ。もともと地球で窓ガラスの職人をやっていたが、六十を過ぎてから火星に渡り、同じ商売を始めた。火星では条例により窓ガラスは最低二枚重ねが義務づけられていて、断熱と気密が足りないと罰金を取られる。だからガラス屋はどこでも二枚窓を売る。安藤も二枚窓は売っていた。ただ、もうひとつ売りたいものがあった。
三枚窓である。
「三枚重ねると、ふつうは曇ると思うでしょう」と安藤はたいてい誰にでも言う。来店した客にも、配達員にも、ときどき道を聞きに入ってきた通行人にも。「でもね、三枚をぴったり、角度のずれなく揃えると、逆に透けるんですよ。二枚のときより、ずっとよく」
どうやら本当らしい。店の奥にある展示用の三枚窓は、たしかに向こう側の壁のしみまで見える。しかし客の反応はだいたい同じで、「二枚で十分です」と言って帰る。もっとも、安藤本人もなぜ三枚だと透けるのか、理屈では説明できていない。揃えると透ける。それだけだ。
ちなみに三枚窓の取り付け料は二枚窓の倍だが、材料費はほぼ同じで、差額のほとんどは技術料になる。三枚を0.3度の誤差もなく揃える腕がなければ、ただの曇りガラスにしかならない。安藤はそこに六十年の職人人生を賭けていたのだが、賭けに応じる客が三年間いなかったのだから、なんとも気の毒な話だろう。
その日の午後、中田という男が店に来た。
中田は四十代で、二軒先の集合住宅に住んでいる。穏やかな顔をしていたが、なんとなく疲れた様子だ。
「西側の窓を替えたいんですけど」
「二枚ですか」
「いや……三枚で」
安藤は、つい二度聞き返した。
中田の事情はこうである。西側の窓の向こうは隣の棟の壁で、ふだんは二枚窓越しにぼんやりした灰色が見えるだけだ。ところが最近、壁に小さなひび割れがあるのに気がついた。ひびの間から、隣人が窓辺に置いている植物の葉先がわずかに覗いている。
「あの緑が、ちゃんと見たくて」
なるほど、そういう理由で三枚窓を頼む人もいるのかもしれない。安藤は黙って頷き、翌朝、三年ぶりに三枚窓の取り付けに出かけた。
施工は丸一日かかる。三枚のガラスを水平器と専用の治具で合わせ、0.3度以内に収まるまでなんども微調整する。夕方、最後の固定ボルトを締めたとき、窓は嘘みたいに透けていた。隣の壁のひびも、ひびの間の葉先も、葉脈まで見える。
中田は満足そうに窓の前に立っている。安藤は道具を片づけ、静かに部屋を出た。
翌日、中田がまた店に来た。今度の表情はやや険しい。
「あの、安藤さん。見えすぎるんですけど」
「はい」
「いや、葉っぱはいいんです。きれいに見えます。でも……壁のひびから、隣の部屋の中まで見えちゃって。洗い物のかごとか、脱いだ靴下とか」中田はちょっと言いにくそうに続けた。「僕が窓の前に立ったとき、向こうの人もこっちを見てたんですよね」
安藤はこういうとき黙って聞くことにしている。
「だから、その、やっぱり二枚に戻して——」
中田がそう言いかけたとき、店のドアが開いた。
「すみません、安藤硝子店さんですか。隣の棟の村瀬です」
四十代くらいの女性で、どことなく申し訳なさそうな顔をしている。
「お隣の中田さんのところに、すごく澄んだ窓が入ったって聞いて。うちの東側にも同じのをお願いしたいんですけど——あ、中田さん」
中田が口を開けたまま固まっている。村瀬はちょっとだけ笑った。
「洗い物のかご、片づけましたから」
安藤は三年ぶりに注文票を二枚目にめくる。店に順番待ちの紙なんてものはなかったので、レシートの裏にボールペンで「2」と書いて壁に貼った。
天体がぴったり同じ面に並ぶと、互いの光を隠し合い、ふだん見えない情報が読み取れるようになることがあります。