鈴木みき子は、地元の商店街でスタンプカードを三枚分貯めた人だ。ちなみに三枚目は、焼き鳥屋で十本食べたときの分である。

その三枚が、まさか月の土台を踏む切符になるとは思っていなかった。商店街主催の「月面基地先行入居者抽選キャンペーン」という看板は何度も目に入っていたが、なんとなく冗談の部類に入れていた。当選メールが来たとき、最初に夫に転送したのは「これ詐欺じゃない?」という疑問つきだった。

詐欺ではなかった。六ヶ月後、みき子は月面居住区A棟201号室の鍵を受け取っていた。


入居初日、みき子はまず窓の外を見た。月の景色というものを、生まれて初めて見た。灰色の平原が地平線まで続いて、空が黒い。地球が見えた。丸くて青い。教科書の写真そのままで、なのになぜかそれが本物だという実感があって、みき子はちょっとだけ泣いた。

そのあとで荷物を開けた。

電子レンジを差し込もうとして、コンセントが合わないことに気づいた。

月面居住区の電圧は200ボルト、60ヘルツ。地球から持ってきた家電は100ボルト仕様がほとんどで、そのまま使うと壊れる。これは先行入居者向け案内パンフレットの三ページ目に書いてあった。もっとも、もらった日に冷蔵庫に貼ったまま読んでいなかったのだが。

コンビニが近くにあれば弁当でも買えるが、月面居住区には当然コンビニはない。食堂は一棟に一つある。みき子はつい「出前館」でも開けないかとスマホを見たが、当然使えない。

食堂で夕飯を済ませ、部屋に戻ってから洗濯をしようとした。

「月面居住区共用ランドリー」は地下一階にあって、超低騒音型の乾燥機が六台並んでいた。使用料は一回800円。地球換算で2,400円相当らしく、案内の張り紙にそう書いてあった。もうちょっと安くしてほしいと思ったが、ここまで荷物を運んでくるコストを考えれば仕方がないのかもしれない。

洗濯が終わって乾燥機から服を出すと、管理組合の若い担当者が廊下で待っていた。

「あの、入居初日のお祝いで、一言コメントいただけませんか」

スマートフォンをこちらに向けている。どうやら動画を撮るつもりらしい。

「月面に来た感想を、ひとこと」

みき子はしばらく考えた。月の景色は本当に綺麗だった。地球が青かった。泣いた。でもそのあと電子レンジが使えなくて、コンビニもなくて、乾燥機が800円で、洗濯物がうっかり縮んで。

「……洗濯物、乾いてますよね、ちゃんと」

みき子は取り出したシャツを確かめながら言った。

担当者がカメラを向けたまま、少しだけ固まった。

鈴木みき子は、三十八万キロ彼方で、洗濯物の乾き具合を確かめた。