フデ婆さんの家は、この町でいちばん低いところにある。そして、いちばん重い。
この町の家は、ほうっておくとすこしずつ下へ沈んでいく。毎日ほんのわずかずつ、底のほうの「底霧」へ引っぱられていくのだ。霧の底に何があるのかは、見て帰ってきた者がいないので、だれも知らない。だから町の人は、隣どうしで家を下から押し上げてやる。「押し当番」という、昔からの習わしである。
もっとも、押すのはただではない。だれかの家を上へ押すと、その反動で、押したほうがすこし沈む。人ひとり持ち上げれば、自分がそのぶん下がる。どうやら、そういうものらしい。
フデ婆さんのところへ毎週押しにくるのは、ノボルという若い男だった。ノボルという名のわりに、この男はいつも沈む側にいる。名をつけた親は、さぞ気楽だったのだろう。
ノボルの家は、町のいちばん端にある。端の向こうは、もう何もない。ただ暗いだけだ。だからノボルは、押し当番のたびにすこしずつ沈む。年々低くなって、いまではフデ婆さんと並ぶ、町の隅っこの二軒になっていた。
町の人は、ノボルをほめる。
「えらい子だよ。自分を削って、あの婆さんを助けてやって」
「あんな端っこで、よく面倒みてる」
ノボルは、あいまいに笑って聞き流している。
その日も、ノボルはフデ婆さんの家の壁に手をかけた。壁には、押すとき掴む用の古い取っ手が三つ。向かいのノボルの家にも、おなじ取っ手が、ちょうど向かい合わせについている。そういえば、だれかが昔、この二軒をひと組で作ったのかもしれない。
「せーの」
ノボルが踏んばると、フデの家がぐいと持ち上がった。かわりに、ノボルの家がことんと沈む。
「毎週わるいねえ」とフデが言った。
「いいって。……ばあちゃんの家、また重くなったろ」
「なるよ。捨てないもの、あたしは。軽くなったら、浮いちまう」
ノボルは、ちょっと黙った。
フデ婆さんの家は、毎週きっちり、おなじぶんだけ沈む。多すぎず、少なすぎず。まるで、来週ノボルがまた来なきゃならないぶんだけ、はかったみたいに。もっとも、町の人はだれも、そのことを深く考えたりはしないらしい。
ずっと昔、ノボルの家が町の端で、ひとりきり、暗いほうへ流れかけたことがあった。端には、押してくれる隣がいない。掴む相手がいなければ、家はそのまま、暗いところへ出ていってしまう。
そのとき、フデ婆さんが、自分の重い家を町の隅まで曳いてこさせた。ノボルの、すぐ隣に。
「これで、押すもんができたろ」と婆さんは言った。
以来、ノボルはフデを押している。フデはノボルに押されている。町はそれを、人助けと呼ぶ。
帰りぎわ。ノボルは縁側の下をのぞくと、フデがどけておいた重し石をひとつ、そっと元の場所に戻した。来週、婆さんの家が、ちゃんと沈んでいるように。
フデ婆さんは、それを見て見ぬふりで、ゆっくり手を振った。沈んでいく床に、どすんと腰を下ろして。