モヤというのが、まあとにかく大きい。うちの棟の三号室に越してきた宇宙人で、体はガラスに水をたっぷり張ったみたいに透きとおっている。踊り場の窓の前に、いつもぼんやりと座って、何をするでもなく外をながめているようだった。

住人たちには、これがどうにも評判がわるかった。なにしろ、窓をふさいでいる。この棟いちばんの自慢は、踊り場の窓から見える遠い町のあかりだったのだ。名も知らない、ずっと遠い別の星の港町のあかりである。夜になるとちらちら点って、それはきれいなものだった。モヤが越してくるまでは。

「あれさえどいてくれりゃあ、まる見えなんだよ」

管理組合長の梅さんは、口ぐせのようにそう言った。小さくて、声が大きくて、廊下ですれ違うたびにモヤをじろりと見上げる。もっとも、見上げたところで、モヤの顔がどこにあるのかは、誰にもわからなかったのだが。

二号室のけんちゃんだけは、モヤのそばが好きだった。ある日、スプーンをモヤの体の前でかざして、きゃっきゃと笑っている。

「見て、まがってる」

なるほど、モヤの向こうにあるものは、なんだかふにゃりと曲がって見えた。けんちゃんの指も、スプーンも、窓のさんも。梅さんは「みっともないから、およしなさい」と、けんちゃんを引っぱっていった。

そのうち、署名が集まった。「踊り場の見晴らしを守る会」という、やたらと長い名前の紙に、住人のほとんどが判をおした。モヤは、文句ひとつ言わなかった。ある晩、梅さんがその紙を持っていくと、モヤはただ、ふるふると小さくふるえた。あれはたぶん、うなずいたのだろう。

「ご迷惑を、おかけして」

モヤの声は、遠くの雨みたいな音だった。それだけ残して、次の朝には三号室はからっぽになっていた。踊り場は、急にひろびろとした。梅さんは満足げに窓をふいた。

さあ、これで港町のあかりがまる見えだ。住人たちは、わくわくして夜を待った。

ところが、その晩、窓の外はまっ暗だった。あかりは、ひとつも点らない。次の晩も、その次の晩も。

「曇りだろう」と梅さんは言った。そういえば前にも、モヤが数日出かけたとき、窓はやっぱり暗かった。あのときも、みんな曇りのせいにしていたらしい。

けんちゃんが、窓のさんを指でなぞって言った。

「あのあかり、モヤのいたとこ、通って来てたんじゃないの」

大人たちは、しばらく黙っていた。遠すぎて、まっすぐには見えない町だった。あのあかりは、モヤの大きな体のふちを、ぐるりと回りこんで、この窓まで届いていたのだ。ふさいでいたのではない。モヤが、あの光を曲げて運んでいた。窓だと思っていたのは、ただの暗い壁で、ほんとうの窓は、モヤのほうだったのである。

梅さんは、その晩のうちに管理台帳をひっぱり出し、モヤの行き先をさがしはじめた。

いま、踊り場には、また大きなモヤが座っている。梅さんが三日がかりで連れ戻してきたのだ。「見晴らしを守る会」の紙は、いつのまにか破られていた。かわりに、新しい紙が貼ってある。「三号室 モヤ様 ずっとご在室のお願い」。梅さんは毎晩、モヤの座ぶとんをぽんぽんとふくらませ、窓ぎわに置く。その向こうで、遠い港町のあかりが、今夜もちらちらと、曲がって届いていた。