カワムラの仕事は、惑星に色をつけることだった。
分光データの可視化プログラムを三十二年間調整してきた。望遠鏡が捉えた赤外線スペクトルを、人間の目で識別できる色に変換する。メタンが多ければ青。アンモニアなら黄色。水蒸気は淡い緑。配色の選び方一つで、研究チームの判断が変わる。責任の重い仕事だった。
三月末に退職した。送別会では「お疲れさまでした」と言われ、花束をもらい、ケーキを食べた。翌日からやることがなくなった。
四月の第二週に、異変に気づいた。
夕方の空を見上げたとき、雲の端が緑色に見えた。目をこすっても消えない。かすかだが、確かに緑がかっている。水蒸気のスペクトルに割り当てていた色。それが、本物の空に滲んでいた。
翌朝は、朝焼けの赤の中に、ありえないオレンジの筋が見えた。メタンの吸収帯に使っていた色だ。理屈としてはおかしい。地球の大気のメタン濃度は二ppm以下で、可視光に影響を与えるはずがない。
でも見える。
カワムラは眼科を予約した。「色覚に変化を感じる」と問診票に書いた。
検査は三十分で終わった。医師は画面を見ながら言った。
「色覚異常は見られません。むしろ、色の識別能力が年齢の平均より高いですね」
「高い?」
「ええ。通常、加齢とともに青系の識別力が落ちるんですが、カワムラさんの場合はほとんど低下していない。三十代と同等のレベルです」
カワムラは黙った。医師は続けた。
「長年、色を扱うお仕事をされていたんですか?」
「惑星の大気の色を」
「なるほど。脳の色彩処理領域が、長期間のトレーニングで強化されたんでしょう。音楽家の聴覚野が発達するのと同じ原理です。つまり——」
医師は少し言葉を選んだ。
「あなたの目と脳は、普通の人より多くの色を区別できる状態にあります。空に見えている緑やオレンジは、実際に存在する微細な波長の違いを、あなたの脳が拡大表示しているんだと思います」
カワムラは診察室を出て、空を見上げた。午後三時の晴天。青い空に、白い雲が浮かんでいる。雲の縁に、やはり薄い緑が見えた。
三十二年間、コンピューター上で惑星に色を塗り続けた結果、自分の脳が勝手に空を塗り始めた。仕事を辞めても、脳は辞めていなかった。
家に帰って、書斎のモニターの電源を入れた。退職時に研究所から渡された記念のUSBメモリがある。中には、カワムラが三十二年間で作成した配色パレットの全データが入っていた。二万八千種類の色。
モニターに色見本を並べて、窓の外の空と見比べた。
午後四時の西の空に見える微かなオレンジは、パレットの一七四二番。木星の大気上層に割り当てていた色だった。東の空の薄い紫は、八〇九一番。海王星の対流圏に使っていた色だった。
カワムラは笑った。声に出して笑ったのは久しぶりだった。
退職して失業した、と思っていた。でも違った。仕事場が、モニターの中から窓の外に移っただけだった。
翌日、カワムラは百円ショップでスケッチブックと色鉛筆を買った。十二色入り。足りるわけがない。でも、足りない色は自分の目が補えばいい。
最初のページに、今朝の空を描いた。六時十二分。東の地平線から七度の位置に、公式には存在しない色の帯。メタンの吸収波長。アンモニアの散乱光。水蒸気の反射スペクトル。全部見える。全部、自分だけに見える。
色鉛筆の青で空を塗りながら、カワムラは思った。三十二年間、画面の中の惑星に色を足してきた。今度は、地球の空から色を読み取る番だ。
スケッチブックの隅に、小さく書き込んだ。
「本日の空。木星成分あり。やや曇り」
翌朝、研究所の後輩から電話があった。土星の新しい観測データが届いたが、カワムラの配色パレットのバージョンがわからないという。
「一七四二番のオレンジ、RGBいくつでしたっけ」
カワムラは窓の外を見た。昨日と同じ位置に、同じオレンジが浮かんでいる。
「西の空を見ろ。午後四時に出る」
後輩は三秒ほど黙った。
「……カワムラさん、退職しても全然変わらないですね」
窓の外で、雲の縁が緑に光った。