北見というのが、まあ普通の事務員である。ただし職場が、月の南極にある。
月の南極には、太陽がどう傾いても光が一度も差し込まない谷底がいくつかある。底は氷点下二百度をだいぶ下回っていて、四十六億年、暗いままだ。誰も見ていない。そういう底のひとつ、地図に「第三番暗底」とだけ書かれた穴の奥に、古い庫が一台、置きっぱなしになっていた。
北見の仕事は、その庫の成果を毎月計上することだった。庫は暗くて寒い底で、ひとりでに貴重なものをこつこつ作る。誰が作ったのか、何のために置いたのかは、もう記録にない。ともあれ毎月きっちり何グラムかが計上され、北見はそれを表に書き写すだけでよかった。それで三年連続、本部から「優良資産管理者」に表彰されていた。
もっとも、本部の誰ひとり、その底へ降りたことはない。北見もない。降りる必要がなかったからだ。庫の扉には、先代の事務員が貼ったらしい手書きの紙が一枚だけ残っていて、こう書いてあった。「開けたら戻せません」。北見はなんとなく、縁起でもないな、と思っていた。
「北見さん、ちょっといいかな」
ある日、本部の速見課長から通信が入った。速見が北見に話しかけるときは、たいてい面倒なことを頼むときである。
「例の庫、見える化したいんだよね」
「見える化、ですか」
「うん。本部の方針でさ、管理してる資産は全部カメラで監視しろって。実績が出てるなら、ちゃんと見えるところで出してほしいわけ。中で何が起きてるか、誰も見たことないっていうのも、こう……ね」
「ね、と言われましても」
「とりあえず照明とカメラ、降ろしといて。来月から映像で報告ね」
北見はしかたなく、機材を抱えて第三番暗底へ降りた。人類で初めて、その底に足跡をつけたことになる。ライトを入れると、四十六億年ぶりに谷底が明るくなった。庫はそこにいた。思っていたより小さく、霜だらけで、地味だった。北見はカメラを設置し、扉の「開けたら戻せません」の紙を、ちょっと笑って見た。
翌月、計上はゼロだった。
その次の月も、ゼロだった。庫は明るく照らされ、カメラにくっきり映り、もう何も作らない。どうやら、誰かに見られている底では、作る気が起きないらしい。
「実績ゼロかあ」と速見は言った。「じゃあ、もともと何もしてなかったんじゃないの、それ。撤去案件に回しとくわ」
北見は慌てた。ライトを消して、カメラを外して、底を暗闇に戻してみた。だが庫は二度と動かなかった。一度でも光が入った底は、もう永久影ではないのだろう。暗くはできても、四十六億年ぶりの足跡と、初めての光の記憶は、消せない。ここはもう、誰かが見た場所なのだ。
北見は基地に戻り、月の南極の地図を広げた。第三番暗底のほかにも、まだ誰も降りたことのない谷底が、いくつも黒く残っている。本部にはとりあえず「移設先、選定中」とだけ報告しておいた。
北見は地図の、まだ名前のついていない谷底に、そっと丸をつけた。
月の南極には、太陽がどんなに傾いても光が一度も差し込まない谷底が実際にあります。何十億年も極寒のまま閉じた、宇宙でいちばん身近な「ずっと暗い場所」です。