タツというのが、おもしろい男で。生まれてこのかた八十年、この町から一歩も出たことがない。出なかったというより、出そびれた、というほうが近い。
「一度でいいから、どこか知らん所へ行ってみたいんじゃ」
近ごろ、タツは口ぐせのようにそう言う。縁側で茶をすすりながら、だれにともなく。女房のフミは、はいはい、と聞き流す。
もっとも、行くとなると船に乗らねばならん。遠くの星まで出る船は高いし、やたらと揺れるという。タツはその手続きを考えただけで面倒になり、茶をおかわりする。それでもう十年、どこへも行っていない。
ある朝、垣根ごしに隣のサカイさんが言った。
「タツさん、知らんのか。この町はな、住んどる星ごと、ゆーっくり、どこかへ運ばれとるんだぞ」
「なんじゃと」
「あんまりなめらかに動くもんで、だれも気づかんだけさ。足の下は、いつだって進んどる」
タツの目が、ぱっと光った。
「……ということは、じゃ。わしがここでじっと座っとるだけで、勝手に遠くへ連れてってもらえる、ということか」
「まあ、理屈ではな」
その日から、タツは動くのをやめた。
町のはずれの、見晴らしのいい丘に、ござを敷いて座りこんだ。弁当と水筒だけ持って。
「わしは今日、旅に出る。船賃はいらん。一歩も歩かん。ただ座っとるだけで、この星がわしを運んでくれるんじゃ」
フミはあきれた。「お父さん、そんなとこで何日も」
「静かにせい。今、まさに出発したところじゃ」
タツは丘の上から、町をながめた。なんとなく、少しずつ遠ざかっていく気がする。郵便局の屋根も、パン屋ののれんも、これで見おさめだ。タツは心の中で、一つずつ別れを告げた。さらば、六十年通った風呂屋。さらば、けんかばかりした弟。いよいよ、知らない土地へ——。
一日がすぎ、二日がすぎた。
三日目の夕方、丘をのぼってくる足音がした。フミである。手に、湯気の立つ盆を持って。
「お父さん。夕飯」
「……なぜ、ここが分かった」
「分かるも何も」フミは盆を置いて、となりに腰をおろした。「あんた、三日前からずっと、この丘におるじゃないの」
「ばかを言え。わしは三日、旅をした。ずいぶん遠くまで来たはずじゃ」
「来とらんよ」フミは笑った。「星が町ごと運んどるんなら、丘も、家も、郵便局も、みんな一緒に運ばれとる。あんたと同じ速さでね。だから町は、ちっとも遠ざからん。わたしも、ずっとあんたのすぐ後ろにおった」
タツは口を開けた。遠ざかったと思った郵便局の屋根は、三日前と寸分たがわず、そこにある。パン屋ののれんも、ゆれている。一歩も歩かなかったのは本当だが、どうやら、だれ一人、置いてこられなかったらしい。
「なんじゃ。それじゃ、わしは……どこへも行っとらんのか」
がっくりと、肩が落ちた。せっかくの大旅行が、縁側のつづきだったとは。フミは湯気ごしに、くすくす笑っている。タツはふてくされて、冷めかけた飯に箸をのばそうとした。
——その時、ふと、空が目に入った。
「……フミ」
「なあに」
「あの星。あんな星、あったか」
丘の上に、見たこともない星が出ていた。一つ、二つではない。ならんだ形も、色も、子どものころにながめた空とは、まるでちがう。さがしても、昔なじみの星が、一つも見あたらない。
あんまりなめらかに運ばれるので、だれも気づかなかった。足の下だけではなかったのだ。頭の上の空も、八十年かけて、そっくり入れかわっていた。
「……わしは」タツは箸を置いた。「わしは、えらい遠くまで、来てしまったようじゃ」
フミは空を見あげ、それから、となりの亭主を見た。
「ほら。ちゃんと、どこか知らん所まで来たじゃないの」
ふたりは、ござの上にならんで、知らない星をながめた。盆の上の飯は、もう、すっかり冷めてしまっていた。