タニさんというのは、谷のいちばん上に住む、たいそうひまな年寄りだった。毎晩、縁側にすわって、向かいの町の灯りをながめる。それがいちばんの楽しみだった。
町も、星も、灯りも、べつにかわったものではない。日が暮れて、ぽつぽつと窓が明るくなる。それだけのことだ。
ところがある晩、タニさんはふと気づいた。
「おや。あの灯り、きのうとならびがちがうぞ」
向かいの町の、端のほうの灯りが、少しずつ真ん中へ寄っている。次の晩はもっと寄った。その次の晩は、もっと。
「わかったぞ」とタニさんは手を打った。「あの町、少しずつ畳んで、どこかへ出て行く気だな」
なんとも、ほうっておけない話だった。だまって行かせるわけにはいかない。
タニさんはさっそく支度をはじめた。別れの灯籠をこしらえ、口上を紙に書いて、何度も読む練習をした。そうして、町の年寄りをみんな、縁側に集めた。
「向かいさんが、出て行きなさる。送ってあげようじゃないか」
「はて」と、へそまがりのウメさんが首をかしげた。「あたしには、ちっとも動いてるようには見えないがねえ」
「毎晩見てりゃわかるさ。あんたはぼんやりしすぎだ」
ともあれ、送別会の晩がきた。縁側には灯籠がならび、年寄りたちは湯のみを手に、向かいの町のほうを向いてすわる。タニさんは紙を広げ、こほんとせきばらいをした。
ちょうどそのとき、向かいの町が、ぱっと明るくなった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。見たこともないほどたくさんの灯りが、いっせいにこちらを向いてともる。まるで、こちらへ手をふるように。
「おや」とウメさんがつぶやいた。「あっちも、送別会じゃないか」
タニさんは、口上の紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
この丘は、ゆっくり回っている。子どものころ、学校で習った。けれど、だれもそんなことを日々は気にしない。
動いていたのは、向かいではなかった。この町のほうが、少しずつ、谷に背を向けていくところだったのだ。
出て行くのは、自分たちだった。
向かいの灯りは、去っていくタニさんたちに、精いっぱい手をふっていた。
タニさんは、こほんともう一度せきばらいをして、口上の紙を、そっと畳んだ。