持たなきゃ失くさない。これがおれの信条だ。
この集合住宅には、変わった決まりがある。物は、置いておくだけで、だんだん薄くなって、しまいには消える。使いもしない、さわりもしない、ただ置いてあるだけで、だ。しかも、小さいもの、数の少ないものから先に消えていく。管理人のサコさんいわく、「数が少ないとね、まわりに紛れるものがなくて、宇宙から見つかりやすいんですよ」とのこと。理屈はよくわからんが、ここではそういうことになっている。
だからおれは、はじめから何も持たない。茶碗ひとつ、箸一膳。失くすものがなければ、失くして嘆くこともない。な、合理的だろう。
向かいのトメさんは、まるで逆だ。部屋じゅうガラクタだらけ。古新聞、こけし、動かない柱時計、片方だけの長靴。
「トメさん、少しは捨てたらどうだ。みっともない」
「あらあら。でもねえ、うちのは一つも減らないのよ」
「そりゃ数が多すぎて、消える順番が回ってこないだけだろ」
「そうそう。だから全部、ずうっと残るの」
ばかばかしい。そう思っていた。
ところがだ。ある朝、たったひとつ持っていたいい腕時計が、うっすら透けていた。昼には、なくなっていた。
まあいい。時間なんか、腹が鳴れば飯どきだ。また身軽になった。これぞ自由。
次に消えたのは、一つきりの上等なカップ。亡くなった女房が、ずいぶん迷って選んだやつだ。
……まあいい。茶は手ですくっても飲める。また身軽になった。
そうして、とうとう女房の写真も消えた。一枚しかなかったから、きっと真っ先に見つかったんだろう。
まあ、いい。
気づけば、おれの部屋には何もない。何もないどころじゃない。残ったのは、昔から大嫌いな、壁にはめ込みの、でかすぎて消えやしない戸棚ひとつきりだ。
「見ろよトメさん。とうとう、失くすものがなくなった。おれの勝ちだ」
「はいはい、おめでとう」
その晩、おれは釘を一本手に取った。でかすぎて、ここでいちばん長く残るという、あの戸棚のすみに。自分の名前を、一字ずつ、深く彫りつけた。