佐野電器の看板は、火星の赤い砂にまみれてもう何年も読めない。もっとも、看板が読めなくても困る人はいない。客は月に一人しか来ないのだ。

その一人が、倉橋である。

倉橋というのは、シドニア通り商店街の端に住む八十すぎの男だ。毎月きっちり第二火曜日に、同じラジオを抱えてやってくる。地球から持ってきた型で、もう四十八年になるらしい。

「佐野さん、また止まっちゃってね」

倉橋はラジオをカウンターにそっと置いた。まるで病院に子どもを預ける手つきである。

佐野は裏蓋を開けて、ため息をついた。電池がまた限界に近い。この型番の電池は地球でもとうに生産が終わっている。火星で手に入るわけがない。取り寄せても片道三ヶ月、届くころには規格が変わっている。

「倉橋さん、先月も言ったけどさ、もうこの電池は宇宙中どこにも——」

「聞こえればいいんだよ」

倉橋はいつもそう言う。ちなみに、火星のFM放送は週に三日しかやっていない。局は一つだけで、流れるのは入植初期に登録された地球の古い曲ばかりだ。

佐野はしかたなく、先月と同じ延命策を始めた。まずボリュームを最低まで絞る。耳を近づけないと聞こえないが、倉橋は気にしない。次にスピーカーの片方を切った。ステレオがモノラルになったが、やっぱり倉橋は気にしない。

三ヶ月前には周波数帯を一つに固定した。どうせ局は一つしかない。

「あとはもう、時計の表示を消すくらいしか——」

「消していいよ」

佐野は小さなドライバーで時計の配線を外した。液晶が暗くなった。これで、たぶんあと二ヶ月はもつだろう。

「ありがとうね、佐野さん。来月もよろしく」

倉橋は満足そうにラジオを抱えて帰りかけた。佐野はつい言った。

「倉橋さん、おれもうそろそろ店閉めようかと思ってんだけど」

倉橋は振り返って、にこにこした。

「そうかい。でもまあ、来月も来るからね」

佐野はなんとも言えない顔で倉橋を見送った。もっとも、佐野にとって倉橋は最後の常連なので、追い返すわけにもいかないのだった。

翌月。倉橋がまたラジオを持ってきた。今度は音が出ない。

佐野が裏蓋を開けると、電池が完全に空だった。もう絞るものがない。

「倉橋さん、さすがにこれは——」

倉橋はポケットから何かを取り出した。小さなボタン電池である。

「これ、補聴器の電池なんだけどね。型が近いと思うんだ。やってみてくれないかい」

佐野はボタン電池をつまんで、ラジオの電池ボックスと見比べた。サイズが微妙に違う。だが、アルミ箔を噛ませれば——どうやら、入る。

「倉橋さん、これ補聴器に使ってる方じゃないの」

「聞こえればいいんだよ」

倉橋はまたそう言った。佐野は何か言おうとして、やめた。

アルミ箔を巻いて、ボタン電池を押し込んだ。スイッチを入れると、ノイズ混じりの古い曲が店の中にぼんやり流れ始めた。

倉橋は目を閉じて聞いていた。佐野が「音、小さいけど大丈夫?」と聞いたが、返事はなかった。補聴器の電池はもう、ラジオの中にある。

佐野は閉店の看板を裏返すのを、また忘れた。