高田みどりというのが、まあ普通の主婦である。ただし最近、宇宙移住した。
引越し先はオリオン腕の端っこにある惑星ケレス3の地方都市で、物件はコスモス団地B棟208号室。家賃は地球換算で月6万円台という破格の安さで、宇宙移住者向け物件情報サイト「スペースホーム」の格安ランキング1位に7年連続で輝いていた。もっとも、レビュー投稿者の9割はすでに転居済みだったが、それを知ったのは引越し後のことだ。
問題は隣との距離だった。
コスモス団地はA棟からF棟まで6棟が並んでいる。棟と棟のあいだは平均1.5メートル。B棟とC棟のあいだにいたっては1.2メートルしかない。人ひとりがなんとか横向きに通れる幅だ。高田はそこを毎朝、体を斜めにして通勤していた。
「隣の窓から手が届くんですよ」と高田は管理組合の苦情窓口に電話した。「C棟の人が換気しようとしてこっちの窓開けたことがあって」
電話口の担当者・田中はしばらく黙った後で言った。
「規約上、棟間距離が1.2メートル以上であれば『隣接』には該当しないんです。ご存知でしたか」
「知りませんでした」
「本規約において隣接とは壁を共有することをいう、という定義でして。1.2メートルは空間ですから、隣接ではないんですね」
「じゃあ何ですか」
「近傍、という扱いです」
つまり近すぎる隣人は「隣人」ではなく「近傍の住人」だという。高田はしばらく返事ができなかった。
「でも、生活音が筒抜けなんです。C棟の208号室の方がゆうべ何食べたかまでわかって」
「それは……」田中がキーボードを叩く音がした。「ああ、C棟208号室はですね、先月209号室と合部屋になりまして、今月から215号室のかたもいっしょになったんです。3人おられます」
「合部屋って何ですか」
「えっと、複数の入居者が自発的に居室を統合することです。うちのマンション、よくあるんですよ。コストが分割されるので」
たしかに管理人室の前を通るたびに「今月の新規合部屋:3件」という張り紙が貼り替えられていた。高田はなんとなく見ていたが、そういう意味だったらしい。
「なんで合部屋が増えるんですか」
「密度が上がるほど重力が強まるといいますか。まあ、人が集まるところにまた人が来るんですよね。法則みたいなもんで」田中は言った。「高田さん、苦情の要点はなんでしたっけ」
「隣が近すぎる、です」
「そうですね。実はですね」田中がまた何かを調べる気配がした。「高田さんのB棟208号室、団地全体の統計で見ると、ご自身がいちばん近傍にお住まいの方になってまして」
「どういう意味ですか」
「C棟に一番近い部屋が、B棟の208号室なんです。つまり近傍問題の発生源というか。近づいてるほうなんですよ、ちょっと」
高田は電話を持ったまま、窓の外を見た。C棟208号室の窓が1.2メートル先にあった。カーテン越しに明かりが見えて、夕飯の支度をしているらしい匂いが漂っていた。カレーだ。たぶん。
「……じゃあ、もっと遠い部屋に移れますか」
「ご案内できますよ」と田中は言いながら、D棟の案内図を広げた。D棟はC棟より0.3メートル遠かった。
この小説は実際の天体とは関係のない架空の惑星が舞台です。球状星団でも、このくらい密集した空間が「日常」として存在しているのかもしれない、という想像から生まれました。