山の上の天文台で、三十四年間ずっと同じ仕事をしてきた。
望遠鏡を動かすのは全部コンピュータ。私の仕事は建物の管理。空調の点検、ドームの潤滑油、雪かき。天文学者たちはリモートで観測するから、普段は私しかいない。
今夜が最後の勤務だった。後任はいない。来月から完全リモート化。
引き継ぎ書類を書き終えたのが午前二時。やってはいけないことをした。望遠鏡を手動モードに切り替えた。三十四年間、一度もやったことがなかった。
何を見ようか、少し迷って、土星にした。三十四年前、当時の主任研究員が「せっかくだから」と見せてくれた天体。あの日のモニターに映った輪の姿に声を失ったことを、今でも覚えている。
座標を入力。ドームが回転。モーターの低い唸りが足元から伝わる。この振動も、もう感じることはない。
モニターに土星が現れた。三十四年前と同じだ。淡い黄色の球体に、薄い輪。カッシーニの間隙。衛星がいくつか、小さな点として寄り添っている。
きれいだな、と思った。
十五分ほど眺めてから、座標を変えた。おとめ座の方角。百三十億光年の彼方。去年、若い研究者がこの望遠鏡で見つけた原始銀河。ビッグバンから十五億年で渦巻構造を持っていたという。論文は読んでいない。研究者たちが興奮して話しているのを、空調フィルターを交換しながら聞いていた。
画面にかすかな光の点が映った。百三十億年前の光。この光が出発したとき、地球も太陽もまだなかった。
その光を、定年退職する管理人がこっそり見ている。なんだか可笑しくなった。論文にもならない。成果にもつながらない。「きれいだな」と思っただけ。
望遠鏡を元に戻し、手動モードを解除した。操作ログは消さなかった。見たものを隠す理由がない。
午前四時。最後にドームの照明を落とす前に、習慣で操作ログを確認した。退勤時の日次チェック。三十四年間、毎晩やってきた作業だ。
ログを開いて、指が止まった。
私が手動操作を始めたのは午前二時十四分。土星を見て、原始銀河に切り替えて、元に戻したのが午前三時二十八分。そこまでは合っている。
その下に、もう一行あった。
午前一時五十一分。手動モード。座標は——私が後から入力したのと同じ、おとめ座の原始銀河。操作時間は四分間。ユーザーIDは「MAINTENANCE_01」。
私のIDだった。
時刻がおかしい。午前一時五十一分、私はまだ事務室で引き継ぎ書類を書いていた。望遠鏡には触っていない。
もう一度ログを読んだ。消去や改竄の痕跡はない。タイムスタンプはNTPサーバーと同期している。午前一時五十一分に、私の権限で、誰かがあの銀河を四分間だけ見た。
私は望遠鏡を見上げた。巨大な鏡面が、ドームの暗闘の中で鈍く光っている。三十四年間、毎日磨いてきた鏡。
四分間。私が引き継ぎ書類を書き終えるまで、この望遠鏡は待てなかったらしい。
鍵を回して、外に出た。東の空が少しだけ明るくなり始めている。車に乗り込む前に、もう一度だけ空を見上げた。あの銀河があるあたりに目を向けたが、肉眼では何も見えない。
ポケットの中で、引き継ぎ書類の束がかさりと鳴った。その一番上の紙に、私は赤ペンで一行だけ追記した。
「望遠鏡は、たまに自分で空を見ます」
後任の業者が読んで首をかしげる顔を想像して、私は車のエンジンをかけた。バックミラーの中で、ドームの白い屋根が朝焼けに染まっていった。