月面基地アルテミスIIIの居住モジュールには、二種類の部屋がある。地球が見える側と、見えない側。

新人の配属面談で、ツジモトは必ず聞く。「どちらがいいですか」。九割は地球側を選ぶ。残りの一割は「どちらでも」と言うが、実際に見えない側に入ると二週間で地球側への移動を申請してくる。

だから、サカキの回答はツジモトの記憶に残った。

「見えない側でお願いします」

即答だった。迷いがなかった。

ツジモトは一応確認した。「地球側の方が人気がありますが、よろしいですか」

「はい」

「見えない側は、窓の外が岩と黒だけですが」

「わかっています」

理由は聞かなかった。面談のマニュアルに「居室の希望理由は問わない」と書いてある。プライバシーの問題だ。ツジモトはそのルールを守る側の人間だった。

サカキは地質調査チームに配属された。仕事は真面目で、報告書は簡潔で、同僚との関係も悪くなかった。ただ、食堂の席はいつも地球が見えない側に座った。展望デッキにも行かなかった。

二ヶ月目。基地の定期メンテナンスで、見えない側の居住モジュールが三日間使えなくなった。全員が地球側に仮移動する。サカキも例外ではなかった。

ツジモトは初日の夜、たまたま廊下でサカキとすれ違った。サカキは仮の部屋から出てきたところで、顔色がいつもと違って見えた。

「大丈夫ですか」

「ええ。少し眠れなかっただけです」

翌日も、その翌日も、サカキの目の下に隈があった。三日目の朝、食堂でツジモトの向かいに座ったサカキは、コーヒーを三杯飲んでからぽつりと言った。

「見えると、数えてしまうんです」

「何をですか」

「日本列島の上の雲。七つ以上あると雨だなと思って。五つ以下だと晴れだなと思って。そうすると、洗濯物を取り込んだかなと考えてしまう」

ツジモトは黙った。

「母が一人で住んでいるので。物忘れが出てきていて。洗濯物を出したまま寝てしまうことがあって」

「……連絡は取れるんですか」

「取れます。でも、見えてしまうとダメなんです。雲の形から天気を推測して、推測から心配が始まって、心配しているうちに仕事が手につかなくなる。だから見ない方がいいと、来る前に決めました」

サカキはコーヒーカップを両手で包んだ。「見えなければ、ただの三十八万キロです。見えると、母の家の上の天気になる」

その日の午後、メンテナンスが予定より早く終わった。サカキは真っ先に自分の部屋に戻った。

三ヶ月目。ツジモトのデスクに、サカキの配置転換申請書が届いた。地球側への移動ではなかった。

「月面外周調査チームへの異動を希望します」

外周調査チームは、基地から五十キロ以上離れた地点で数日間キャンプする。通信は業務用の低帯域回線だけ。私用の通話はほぼできない。窓もない。宇宙服のバイザー越しに見えるのは、岩と砂と黒い空だけ。

理由欄に、サカキは書いていた。

「見えない場所でなら、信じられます。母は大丈夫だと」

ツジモトは申請書にハンコを押した。それから窓の外を見た。青い地球が月の地平線の上に浮かんでいた。雲が六つ見えた。

東京のあたりは、たぶん曇りだった。