天井という苗字の老人が、水曜の昼になると観測所の食堂にやってくる。所員ではない。近所の団地に住んでいるOBだと聞いているが、誰もちゃんと確かめたことはないらしい。いつも窓際の同じ席に座り、同じ焼き魚定食を頼んで、だいたい味噌汁から手をつける。

その日、僕は居合わせただけだった。彗星シーズンで食堂が混んでいて、空いている席が向かいしかなかった。

味噌汁を半分ほど飲んだところで、天井さんは顔を上げずに言った。

「青いほうは、嘘ですよ」

「は」

「彗星の、青い尾。あれは嘘です」

食堂の奥で、配膳のおばちゃんが「天井さんまた始めたわ」と小さく笑うのが聞こえた。常連ネタらしい。

僕は箸を止めた。学部でイオンテイルの物理を一通りやった側の人間としては、反射的に引っかかる。COの陽イオンが太陽光の紫外線で励起されて蛍光で青く光る。ダストは反射光で白く光る。形も長さも向きも違う。観測写真もいくらでもある。嘘と呼ばれる余地がない。

「嘘、というのは」

「ああ、物理の話じゃないです」

天井さんはスプーンを置いて、少し面倒そうに続けた。

「私個人の嘘です。青い尾が、という意味じゃなくて、私が、青い尾について、嘘をついたっていう話」

「はあ」

「昔ね、家内と初めてデートしたとき、彗星を見に行くって話になったんですよ。山の中腹の駐車場までバスで行く、そういう当時流行ってたやつ」

話が急に遠くなった。僕は黙って先を待った。

「それでね、実を言うと私、その夜まで、彗星と流星群の区別がついてなかったんです」

「は」

「いや、理屈では別物だと知ってたけど、感覚として混ざってた。『流れ星がたくさん落ちる夜』くらいに思って行ったんですよ。尾を引いて空に張りついてる星がある、なんて想像してなかった」

天井さんは少し恥ずかしそうに湯呑みを回した。

「それで家内が、空を指して『青い尾、見える?すごくきれい』と言った」

「はい」

「私は正直、どれが彗星なのかもよくわかってなかった。空にぼんやり光るものはいくつかあって、どれの話をされてるのかも、つかめてなかった」

「……はあ」

「でも『うん、青くてきれいだね』って答えたんです。ここで『どれ?』と聞き返したら、空気が終わると思って」

僕は味噌汁の豆腐を箸で割った。

「それで結婚しました」

「え」

「いや、そのあといろいろありましたけど、起点はあの夜です。青い尾の嘘です」

天井さんは焼き魚の骨を器用にはがしながら続けた。

「以来、彗星の話が出るたびに、私は少し疚しいんですよ。青い尾、青い尾って、世間は言う。でも私にとって青い尾は、あの夜のごまかしなんです。本当は何ひとつ見えてなかったのに、見えてるふりで返事した、あの嘘」

「はあ、なるほど」

「だから、青いほうは、嘘なんです。私にとっては」

そう言って、天井さんはレシートをつかんで立ち上がった。「お先に」と会釈をして、食堂を出ていった。

僕は残った味噌汁を見つめた。しょうもな、と口の中で言った。

いや、ご本人にとっては大事な思い出なのだろう。人生を左右したごまかしで、五十年来の連れ合いとの起点で、そういうのは頭では理解できる。ただ、そのしょうもない個人的な懺悔を「青い尾は嘘」という主語の大きな言い方で週一で言いふらされても、こちらは困る。イオンテイルが可哀想だ。CO⁺はちゃんと蛍光しているのに、一人の老人の同調行動のせいで嘘呼ばわりされている。

夕方、僕は当番で観測ドームに入った。今夜はC/2026 Bのシフトで、三時間おきに長時間露光を積む。眠い。昨日の測光データの較正も終わっていない。ノートパソコンには較正前のヒストグラムが開きっぱなしだ。

現像用のモニタに、露光を重ねた画像が浮かんできた。青い尾が、教科書どおりに右上へ細く伸びていた。ダストテイルは淡い白でゆるく弧を描いていた。

ただ、きれいかと聞かれると、正直よくわからなかった。さっきから僕が見ているのは尾の形じゃなくて、背景光のむらと、雲がかすめるたびに揺れるS/N比の数値だった。

スマホが震えた。葵からだった。

「ねえ、今夜の彗星もう見た? テレビでやってる、青と白の尾がすごくきれいって。」

僕は、世界でいちばんこの彗星を近くで見ているはずの人間だった。望遠鏡のすぐ下にいて、光子を一個ずつ数えていた。葵は天文に詳しくない。いつも「観測所の夜って、きれい?」と聞いてくる。僕はいつも適当に返している。

指を動かして、僕は打った。

「うん、青くてすごくきれいだったよ。写真あとで送る。」

送信してから、自分の親指を見た。

天井さんと、まったく同じ嘘をついていた。