田村の仕事は、宇宙を見ることだった。
正確に言うと、「宇宙観測データ統合システム」の運用管理であり、彼自身が何かを見ているわけではない。衛星が見て、センサーが記録して、サーバーが処理する。田村はそのシステムが滞りなく動くよう、毎日ログをチェックしていた。
このシステムが一日に処理する観測対象の数は、現在のところ9億4,000万天体。地球から数十億光年先の銀河まで、赤方偏移・輝度・形状・位置の変化を自動的に追い続けていた。システムの名前は「ARGUS(アルゴス)」といった。
「田村さん、今月の成果レポート、まだですよね」
上司の神田課長が執務室のドアを開け、顔だけ出した。田村は振り返らずに答えた。
「もう少しかかります」
「もう25日ですよ」
「存じております」
沈黙の後、ドアが閉まる音がした。田村は大きく息を吐いた。
問題は、ARGUSの月次パフォーマンスレポートを出力する作業が、この三週間、完了しないことだった。
処理は走る。92時間が経過する。93時間目に、システムが落ちる。ログには「認証エラー:レポート承認者の顔認証に失敗」と出る。
ARGUSは最新鋭のシステムで、セキュリティのために生体認証を採用していた。毎月末、レポートをサーバー上に確定するには、「システム管理責任者」がカメラの前に立ち、顔認証を通過する必要があった。管理責任者は田村だった。
田村は試した。正面から。少し上を向いて。眼鏡を外して。眼鏡をかけて。蛍光灯の下で。自然光の下で。朝に。夜に。毎回、同じエラーが出た。
「認証に失敗しました。登録情報との一致率:17%」
17%。
田村はARGUSのコードベースを確認した。顔認証モジュールは、宇宙観測の副産物として改良されたコンピュータービジョン技術が使われていた。銀河の微細な輝度変化を0.01%の精度で検出できるよう訓練されたAIが、人間の顔認識にも転用されていた。
「精度が高すぎる」と、開発チームの説明書きにあった。「一般的な顔認証の誤検知率0.1%以下を大幅に下回ります。宇宙規模の観測精度で人物を同定します」
田村はシステム管理者データベースを開いた。自分の登録写真を確認した。三年前の入社時に撮影されたもので、当時の田村は少し太っていた。正確には、今より7キロ重かった。
ARGUSは、銀河の輝度が0.01%変わっても見逃さない。当然、田村の顔が7キロ分変わったことも見逃さなかった。
再登録の申請を上げた。人事から返ってきたメールには「システム管理責任者の顔情報更新は、既存の管理責任者の顔認証が通過した状態でのみ実行可能です」と書いてあった。
田村はしばらく画面を見ていた。
今日もARGUSは正常に稼働していた。ダッシュボードには、9億4,000万個の天体がリアルタイムで更新されていた。100億光年先の銀河が、今この瞬間も追跡されていた。
ドアがまた開いた。
「田村さん、レポートは」
「神田課長」と田村は言った。「課長は私の顔、わかりますよね」
「は?」
「3年前から変わったと思いますか」
神田は少し考えた。「……太ってたよね、昔」
「ありがとうございます」
田村はARGUSのカメラの前に立ち、最後にもう一度だけ試してみた。
「認証に失敗しました。登録情報との一致率:17%」
宇宙の端まで見通せる目が、隣に座り続けた男の顔を、三年間ずっと見ていなかった。