申請書は手書きだった。
宇宙移住局の審査官・山本啓は、受け取った書類を見て一瞬、窓口の受付嬢を疑った。いたずらか、と。しかし受付嬢はいつも通りの無表情で「通常ルートで来ました」と言い、そのまま奥に引っ込んだ。
書類には「移住申請書(第7号様式)」と印字されていた。申請者の名前は田中守、42歳、会社員。移住希望先の欄には「水蒸気系惑星 D区画」と丁寧な字で書かれていた。
理由の欄を、山本はゆっくり読んだ。
花粉がないから。
それだけだった。
「花粉がないから」という理由で97光年先の惑星への移住を申請した人間が、いま山本の机の上にいる。山本は眼鏡を外し、こめかみを揉んだ。
水蒸気の惑星の申請は、今年これで3件目だった。ひとり目は「雨が好きだから」、ふたり目は「湿度が高いと肌がいい状態になるから」。今回は花粉症。動機のレベルが年々上がっている、というか下がっている。
山本は却下の理由を書き始めた。
当該惑星の大気温度は400℃を超えると推定され、ヒトの生存に適した環境ではありません。また……
書きかけて、止まった。
窓の外では、今年も桜が散り始めていた。山本の鼻が、その瞬間にかすかに反応した。
山本は花粉症だった。
20年間、毎年2月から5月は薬を手放せない。今朝も出勤前に点鼻薬を3回使ってきた。目が腫れて、電車の中でぼんやりしていたら乗り越した。そして今年は例年より飛散量が多いらしく、薬を替えても効きが甘い。
彼は書類の却下理由欄に目を戻した。
当該惑星の大気温度は400℃を超えると推定され……
400℃なら花粉はないだろう、とふと思った。花粉どころか、あらゆる有機物が蒸発する温度だ。そうだ、花粉はない。申請者の言っていることは、理由としておかしくない。
問題は人間が生きられないことだ。
山本はペンを持ったまま、しばらくそのことを考えた。水蒸気しかない惑星。花粉も、杉も、ヒノキも、PM2.5も、黄砂も、全部ない。澄んだ、熱い、蒸気の世界。
もちろん熱くて死ぬ。
でも花粉はない。
「……」
山本は却下印を取り出した。スタンプ台に押し当て、書類の右上に構えた。
そのまま5秒、止まった。
彼は印鑑を置き、書類の下の方にある「連名申請者」の欄を見た。そこは空白だった。本来、家族が一緒に申請する場合に使う欄だ。
山本は、ゆっくりとペンを持ち直した。
そして自分の名前を、その欄に書いた。
山本 啓(審査担当)
書いてから、我に返った。
彼は書類を引き出しの中に滑り込ませ、席を立ち、給湯室でコーヒーを淹れた。コーヒーを飲みながら、「出してもどうせ通らない」と思った。自分で却下するのだから。
でも連名の欄はそのままにしておいた。
翌朝、田中守は却下通知を受け取った。理由の欄には丁寧に「生存環境不適合」と書かれていた。その紙の右下に、小さく追記があった。
ご意向はよく理解できます。(審査官・山本)