田辺は、見えないものを数える仕事をしている。
正確に言うと、見えない光を測定して記録し、その中から「余計なもの」を引き算する仕事だ。望遠鏡が拾ったデータには、いつも手前からの混入がある。手前のノイズを差し引いてはじめて、遠くの本当のシグナルが見えてくる。
今日も、田辺は午前八時に出勤した。コーヒーを淹れ、モニターをつけ、昨夜のスキャンデータを開いた。
「今日こそ前景の切り分けを完成させる」
そう呟くのは、この三週間で四十回目くらいだった。
データには何層もの光が重なっている。一番手前の層、その次の層、さらに奥の層。それぞれ発生源が違う。違うのに、届いたときには一緒くたになっている。田辺の仕事は、重なったシグナルを丁寧に剥がすことだった。
同僚の沢田が出勤してきた。
「おはよう。また来てたの、田辺さん」
「昨夜からです」
「泊まり込み?」
「データが面白い時期なので」
沢田は田辺のコーヒーカップを横目で見た。飲み干した痕跡が四つ。
「奥さんから連絡来てます?」
田辺は答えない。モニターに映るグラフの曲線を、指でなぞるように見ている。
「来てますか、連絡」
「スマホは機内モードにしてあります。集中できないので」
沢田はため息をついて、自分のデスクに座った。
午後、田辺はついに今日のデータから前景ノイズを完璧に分離することに成功した。キーボードを叩いて結果を保存し、立ち上がって伸びをした。
「できました」
「おめでとうございます」と沢田が言った。「で、機内モード、解除してみてください」
田辺は訝しげにスマホを取り出して、モードを切り替えた。
通知が一気に届いた。
妻から五十三件。
最初のメッセージは昨夜の二十一時。「産気づいたので病院に向かいます」。
最後のメッセージは今朝の六時半。「男の子でした。顔が田辺さんに似てます。来られる時で構いません」。
田辺はしばらく画面を見ていた。
「前景の切り分けを完成させた日に」と彼は小声で言った。
沢田は立ち上がって、田辺の背中に上着を押しつけた。
「記念日ですね」
「本当に似てるんでしょうか、顔」
「行ってから確認してください」
田辺は上着を受け取り、ようやくモニターから目を離した。画面の中では、剥がし終えたシグナルが静かに輝いていた。いちばん手前の混入を取り除いた先に、ずっとそこにあったものが、くっきりと見えている。
「見えない光の専門家が、一番近くにあるものを見落とすのは」と田辺は言いかけた。
「あるあるです」と沢田は言った。「早く行ってください」
田辺は走った。