引っ越しのタイミングが最悪だった、とイツキは思った。
ポリス第二居住区の荷物は、段ボール十七箱。そのうち十四箱は午前中に新居へ運び終えて、残りは三箱だけだった。玄関先に積んで、最後の往復に戻ったところで、腕の端末が赤く点滅した。
〈嵐警報。レベルB。全居住者は速やかに最寄りのシェルターへ。〉
このタイミングか、とイツキは空を見上げた。空は赤茶色で、いつもと変わらない。変わらないが、変わらないからこそ余計に怖い。嵐は見えない。見えないのに来る。それがここの嵐の厄介なところだった。
シェルターは二百メートル先だ。三箱の段ボールを残して逃げるのは簡単だった。でも三箱の中身は、台所道具と本と、それから元カノが置いていったエスプレッソマシンだった。
「置いていく理由もないんだよな」とイツキは独り言を言った。
エスプレッソマシンは重い。でも持っていける。
問題は残り二箱だ。台所道具と本を入れ替えれば一箱にまとまるかもしれないが、今からそれをやる時間はない。レベルBの猶予は三十分で、今から往復すると二十五分かかる。
五分の余裕で三箱は無理だと計算して、イツキはエスプレッソマシンの箱だけ抱えてシェルターへ向かった。
シェルターの扉の前に、住民が十人ほど並んでいた。さっさと中に入ればいいのに、みんな荷物のことで言い合っている。
「鍵を取りに戻っていいですか」「ネコがいます」「洗濯物が干してあって」
係の人間が額に手を当てて「全員今すぐ入ってください」と繰り返していた。
イツキが列の後ろに並んだとき、前に見覚えのある後頭部があった。
「サオリ?」
振り返った顔は、確かにサオリだった。元カノだ。去年の暮れに別れた。引っ越しの理由には関係ない、と自分では思っている。
「なんであなたがここに」とサオリが言った。
「引っ越してきた。今日」
「今日」サオリは微妙な顔をした。「このタイミングで?」
「荷物、あと三箱残ってる」
「入れた?」
「一箱だけ。エスプレッソマシン」
サオリがちょっと黙った。「それ、私が置いてきたやつ」
「そう」
「捨ててないんだ」
「重いから捨てられなかった」
そこで係の人が「いいから早く入ってください!」と声を張り上げた。二人はシェルターの中に押し込まれた。
シェルターの中は地下一階、広さは二十畳ほどで、すでに四十人ほどが詰めていた。空気循環の音が低く唸っている。壁はコンクリートより厚い特殊材で、ここにいれば嵐の間は安全だ。
問題は、二時間いなければならないことだった。
サオリとイツキは、壁際のベンチで隣に座ることになった。
「なんで今日引っ越すの」とサオリが言った。別に怒っているわけではなく、本当に不思議そうな声だった。
「休みがここしかなかった」
「仕事変わったの?」
「変わった。ポリス第三の観測所に」
「へえ」サオリは少し表情を和らげた。「あそこいいじゃない。眺めが」
「良すぎて怖い」
「わかる」
二人はしばらく黙った。嵐の音は聞こえない。聞こえないが来ている。シェルターの外では見えない何かが降り注いでいて、それを二メートルのコンクリートが受け止めている。
「残りの二箱は?」とサオリが聞いた。
「諦めた。濡れるものじゃないし」
「台所道具と本だっけ」
「なんで知ってる」
「引っ越し先に来たことあるから」
「ああ」イツキは今の住所を思い出した。元カノが荷物を取りに来た場所だ。「そうか」
「本、濡れたら困るんじゃない」
「シェルターが終わったら走る」
サオリはしばらく考えてから「私も行く」と言った。
「二箱あるから」
「うん」
「なんで」
「荷物、なんとなく知ってるから」そう言ってサオリは正面を向いた。「ここ、狭いし」
シェルターの中は確かに狭かった。嵐は二時間続いた。二人はほとんどしゃべらなかった。時々サオリが端末を見て、イツキが天井を見た。
シェルターが開いたのは夕方だった。空は変わらず赤茶色だった。二人は新居から旧居まで歩き、残った二箱を抱えて戻ってきた。エスプレッソマシンは新居の台所に置いた。
「ありがとう」とイツキが言うと、サオリは「重かった」とだけ言って帰っていった。
翌朝、イツキはエスプレッソを一杯淹れた。
美味くはなかった。でも捨てる理由もなかった。