揺れ聞きのゲンさんというのが、この町の尋ね所で、もう四十年、欠けた椀の水をのぞいている。
尋ね所の窓口では、いちばん古い落とし物をさがしてくれる。ずっと昔、なにもかもがはじまった、あの一瞬。そのとき生まれて、すぐにどこかへ飛んでいった。それきり、だれの目にもとまっていない。いちばんはじめのもの。それを、さがす。
とはいえ、じかに見ることはできない。できるのは、そいつが遠くに残していった、ごく小さな揺れの痕をたどることだけだ。ゲンさんは椀に水を張り、その面のふるえに耳をすます。町じゅうの荷車や足音や、パン屋のかまどのふるえを、ひとつずつ頭のなかで消していく。ぜんぶ消して、なお残るふるえがあれば、それが遠いあれの痕、というわけだ。
もっとも、四十年さがして、一度も見つかったことはない。さがし方が悪いのか、はじめから無いのか、それはだれにもわからない。窓の上の札は、たいてい――いや、いつも――『捜索中』のままだった。
やっかいなのは、この町の決まりだ。『捜索中』の札は、見つかるまで外せないことになっている。つまりゲンさんは、あれが見つからないかぎり、この椅子から立てない。そしてあれは、四十年見つからない。ということは、ゲンさんは死ぬまで揺れ聞きなのだろう。
「もう、いいかげん、かわってほしいんだがねえ」
だれにともなく、ゲンさんはつぶやく。ちなみに、揺れ聞きのくせに、このごろゲンさんの手は、だれよりよくふるえる。年のせいだ。ふるえる指で椀を持つと、水面がゆれて、遠いあれのふるえなんか、もう読めやしない。
そんな昼さがりに、窓口へ、ちいさな影がぬっと立った。
タネという、近所の子だった。六つで、前歯が一本、ぽっかり抜けている。背が窓に届かないので、うんと爪先で立っている。
「あの、ね。さがしてほしいの、あるの」
「ほう。なにを落とした」
「いちばん、はじめの」
ゲンさんは、水から顔を上げた。この子も、あれを、と思ったのだ。
「はじめの、なに」
「は」タネは、抜けたところを指でさした。「はじめての、は」
そういうことか、とゲンさんの肩から、ふっと力が抜けた。
この町の親は、子にこう言う。はじめて抜けた歯は、はじめ尋ね所がさがしてくれる、と。だから歯の抜けた子は、たいていここへ来る。もっとも、抜けた歯は本人が飲みこんでいることが多い。正しくは「はじめてを落とした子」が来るだけなのかもしれない。
「どこで落とした」
「うちの、ゆか。とこの、すきま」
ゲンさんは、椀を引き寄せた。ふるえる指で、そっと水を張る。今度は、遠くを消さなくていい。近くの、ちいさな、かたい音。床下をころりと転がった、小さな歯のひとつ。四十年ぶんの耳には、そんなもの、あくびをするより易しかった。
「三軒さきだな。北の柱の、根もと」
「え、ほんとに?」
「歯は、うそをつかん」
タネは目をまるくして、それから、抜けた口で、へへ、と笑った。
ゲンさんは、机の下の長い台帳をひらいた。欄が、ふたつある。「歯」の欄には、印がびっしり、何百と並んでいた。ゲンさんは、そこにもう一本、線を足した。
となりの「星のはじまり」の欄は、ひらいた日から今日まで、まんまるの〇が、ひとつきりだった。
「あれも」タネが、窓の上の『捜索中』の札を指した。「見つかる?」
「……もうちょっと、かかる」
「てつだうよ」
タネはそう言って、抜けた歯のあった口で、もう一度笑い、ぱっと駆けていった。三軒さきの、北の柱へ。
その日の夕方、尋ね所の前には、どこで聞いたのか、歯のぬけた子が三人、ならんでいた。窓の上の札は、今日も『捜索中』のままだった。