午後3時17分、モニターの波形が小さく揺れた。
田中みずほは画面から目を離さずにコーヒーを飲んだ。ぬるかった。
「また来た」
彼女は記録用のフォームを開いた。観測時刻、波形の種類、推定される発生源の方向。打ち込むべき欄は決まっている。手が自動的に動く。
観測センターに来てから4年。彼女の仕事は「通り過ぎたものを記録すること」だ。
通り過ぎるもの自体は見えない。感じられない。誰も気づかない。それが通り過ぎたことを知っているのは、このモニターと自分だけだ。「何かが来ましたよ」という痕跡だけが、画面の上をひと滑りして消える。
今日は早く帰りたかった。
娘が7歳になる日だ。「ケーキは苺にして」と昨日念押しされた。「ちゃんと来る?」とも聞かれた。「来るよ」と答えたら、「ほんとに?」ともう一度聞かれた。
子供に二度聞かれるのは、それなりの理由がある。
「また来た」
3時41分。今度は少し大きい。波形が伸びて縮んで、また静かになった。みずほは記録を入力しながら、頭の片隅で今日の帰り道を計算した。5時に上がれば6時には家に着く。ケーキ屋は6時半まで開いている。
「先輩、これ見てください」
後輩の中村が隣のモニターを指差した。「さっきの波形、ちょっと変じゃないですか。ここの立ち上がり、過去データと比べると少し形が違うような気がして」
みずほは立ち上がって中村の画面を覗いた。確かに、少し違う。
「記録しておいて。詳しい解析は明日でいい」
「でも今日のうちに確認したほうが」
「記録が残ればいい。解析は明日」
「でも先輩、これ、もしかしたら今まで見たことない……」
「記録しておいて」
声が少し強くなった。中村が黙った。みずほは自分の席に戻った。
時計は4時を回っていた。
モニターが静かになっている。さっきの波形のことが少し気になった。確かに立ち上がりの形が、いつもと違う。でも記録さえしてあれば、明日誰かが見る。
それが仕事の仕組みだ。
「先輩」
中村がまた声をかけてきた。今度は静かな声だった。
「解析してみたんですけど」
「明日でいいって言ったよ」
「あの、でも……これ、もしかしたら10年に一度あるかないかの」
「中村くん」
「はい」
「記録した?」
「……しました」
「じゃあいい。続きは明日」
5時ちょうどにみずほは席を立った。ロッカーでコートを取り、エレベーターのボタンを押した。
帰り道、スマホに夫からメッセージが来た。
「娘が熱出した。ケーキはいらなくなったかも」
みずほは立ち止まった。
「今どんな感じ?」と打った。
「38度。寝てる。来るのは来ていいけど、パーティーは無理かも」
コートのポケットの中で手を握った。そしてまた歩き出した。
ケーキ屋の前まで来て、店のガラスに自分の顔が映っているのに気づいた。疲れた顔をしていた。
ショーケースの中に苺のケーキがあった。
みずほはドアを開けた。
一番小さいサイズを買って、電車に乗った。娘はきっと寝ているだろう。ケーキも食べられないかもしれない。でも明日の朝、目が覚めたら「あった」とわかる。
それでいい気がした。
翌朝、中村から全体チャットにメッセージが届いた。
「昨日の波形、上に報告しました。今世紀最大規模の可能性があります。先輩のおかげで記録が残ってました。ありがとうございました」
みずほはスマホの画面を見た。娘はまだ寝ていた。冷蔵庫の中にケーキがある。
何かが通り過ぎた日だった、と思った。
いくつかは記録に残る。いくつかは残らない。
どちらが大事かは、たぶん記録には書けない。