田中が第4保管庫に初めて足を踏み入れたのは、係長に「あの案件、そろそろ動かしてくれないか」と言われた翌朝だった。
案件番号MARS-2026-0113。処理票には「火星由来岩石サンプル、1点。分析依頼中。」とある。受け取り人の欄は空白。担当研究者名も空白。緊急連絡先の欄には「調整中」と鉛筆で書いてあって、その文字もかなり薄れている。
「3ヶ月ですよ、これ」と田中は処理票を持ったまま言った。相手は誰もいなかったが、独り言を言わないとやっていられない仕事だった。
保管庫の棚の一番下の段に、透明なケースに入った石が一つ置いてあった。握り拳よりやや大きい。赤茶色の表面に細かい亀裂が走っている。ラベルには「Mary Anning 3(粉砕前サンプル残余)」と印字されており、下に手書きで「取り扱い注意」と書いてあった。何に注意するのかは書いていない。
田中は石を持ち上げてみた。予想より重かった。
宇宙サンプル遺失物取扱所とは、探査機が回収して地球に送り返してきた岩や砂のうち、担当研究者が転勤したり研究費が尽きたりして宙に浮いたものを管理する部署だ。聞こえはいいが実態は地味で、田中はこの3ヶ月でMARSー2026-0113の処理票を6回書き直し、関係部署に4回問い合わせ、返事を2回もらったが内容はどちらも「確認中」だった。
「確認中って何を確認してるんだ」と田中は言いながら処理票ファイルを開いた。
6枚重なった書類の一番下に、設備管理課から送られてきた書類があった。折り目がついていて、田中が一度も開いていなかったものだ。
広げると、タイトルは「宇宙サンプル受け入れ台帳(改訂版)」。各サンプルの収集地・採取年代・想定保管年数が表になっている。
田中はMARSー2026-0113の行を探した。
採取年代の欄に、数字が書いてある。
「3.5×10の9乗年前」
田中はしばらく動かなかった。
3.5×10の9乗。つまり35億年前。
想定保管年数の欄には「確認中(物質起源不明)」とあった。
田中はゆっくり処理票を取り出し、「担当者不明のため保管期間延長申請」を書きかけた手を止めた。
延長申請の様式には「現在の滞留期間」を記入する欄がある。
受け取ったのは3ヶ月前。だが採取年代は35億年前。これはいったい、いつから「滞留」していることになるのか。
しばらく考えた後、田中は鉛筆を置いて係長の部屋に向かった。
「滞留期間なんですが」と田中は言った。
「3ヶ月だろ」と係長は言った。
「台帳によると35億年です」
係長はコーヒーカップを持ったまま止まった。
「それは採取年代の話だろ」
「採取してから今日まで、ずっと誰かに分析を待ってもらってたわけですよね。担当者欄は空白のまま、35億年」
「…石は何も待ってない」
「でも分析結果は出ていません。答え待ちです、今も」
沈黙があった。
「延長申請、様式が対応してないな」と係長はやや早口で言った。
「一番長い選択肢が10年です」と田中は言った。「35億年は選択肢にありません」
係長はコーヒーを飲んだ。飲み終えてから言った。
「手書きで書け。上限外の場合は自由記載欄がある」
田中は保管庫に戻り、処理票の滞留期間欄に「約35億年(うち当課保管期間:3ヶ月)」と書いた。
石は棚の下の段で、変わらず重そうにしていた。何かを待っているようにも、何も待っていないようにも見えた。
田中は「答え待ち」の欄にスタンプを押した。
スタンプの文字は「保留」だった。