岩本さんが死んだのは三月で、観測室にはまだコーヒーカップが残っていた。
取っ手にひびが入った白いカップ。洗い場に持っていくのがなんとなく気が引けて、棚にそのままにしていた。
彼女が岩本さんの研究を引き継いだのは五年前だ。J-3117という天体。四十年前まで強い電波を出していたのが、ある日ぱたりと止まった。
岩本さんはそれから三十年、毎朝その天体を確認し続けた。
「いつか起きるよ。そういう天体なんだ」
口癖だった。彼女はそれを信じたわけじゃない。ただ、やめる理由がなかった。五年前に定年を迎えた岩本さんは「あとは頼む」とだけ言い残して、研究室を出ていった。
六月の朝、いつものように端末を開いた。
画面の数字が動いていた。
J-3117。信号検出。午前三時十二分。
手が震えた。ログを開く。微弱な電波が断続的に三回。四十年の沈黙が終わっていた。
隣の席の後輩が画面をのぞいた。
「え、マジすか。岩本先生の——」
「うん」
「すごい……論文書けますね」
「書くよ。岩本さんの名前も入れる」
後輩はうなずいて自分の席に戻った。彼女は報告書のファイルを開いた。
ただ、データを重ねていくうちに、手が止まった。
波形が違う。
四十年前の記録と並べると、リズムも形も別物だった。同じ場所から出ている。でも、同じ信号ではない。
岩本さんが三十年聴き続けた音は、もう出ていない。いま届いているのは、別のなにかだ。
論文は通るだろう。「四十年ぶりの再起動」として記事にもなる。同じ場所からまた電波が出た——それだけで十分な発見だ。波形の違いは、論文の中にひっそり書けばいい。
棚のコーヒーカップに目がいった。ひびの入った取っ手。岩本さんはいつもそこに右手の薬指をかけていた。
報告書に「J-3117の再起動を確認」と打った。
指が止まった。再起動ではないと、わかっている。
消さなかった。