婚約者の実家へ、初めての挨拶に行く朝だった。気に入られたい、ただそれだけだったのに、トキはこともなげに言った。
「うち、ちょっと穴の近くなんだけどね」
ちょっと、ではなかった。トキの実家は、宇宙でいちばんこわいと言われる、あの黒い穴のすぐ隣にあった。落ちたら二度と戻らない。光さえ戻らないという、ブラックホールだ。それが、庭の垣根のむこうで、ぽっかり口をあけている。
うしろに穴があると、笑顔の作り方まで忘れてしまう。トキの父のゴウさんは、大きな人だった。義理の父になる人、というのはそれだけでこわいものだろう。うしろに穴があると、なおさらだ。
家に上がって、まず足がすくんだ。床が、ゆるく傾いている。低いほうは、穴の側だ。畳の縁には、細い桟が一本ずつ渡してある。物がひとりでに低いほうへ寄っていくのを、どうやら、そこで止めているらしい。
「ああ、それね。慣れると便利だよ」
ゴウさんは台所を指さした。流しがない。汚れ水は、床の溝を伝って、低い戸口からそのまま外へ流れ、斜面をくだって穴へ落ちていくのだ。生ごみも同じで、ゴウさんは魚の骨を、縁側からひょいと低いほうへ放った。骨は斜面をすべって、すうっと消えた。
「ほら。消えた。ごみ捨て場、いらないんだ」
なんとも、ぼくはひきつった。ちなみに、この村には、ごみ捨て場も、たぶん救急車も来ない。来る前に穴だと思う。それを、みんなにこにこ「便利」と言う。もっとも、こっちは生きた心地がしないのだが、だれも気にしていないらしい。
昼も、夜も、ぼくだけが、ずっと背中が冷たかった。トキの母のミネさんが出してくれた煮物を、皿を両手で握って食べた。トキは実家に帰ると、少し子どもっぽくなる。「そんなに固くならないの」と笑っている。
だんだん、ぼくも思えてきた。なんだ、平気なんじゃないか。この人たちは、ちゃんと分かって、うまくつきあっている。ぼくが、ただおびえすぎていただけなのではないか。
すっかり気がゆるんで、ぼくは、お茶をつごうとした。ミネさんのお玉を、なんとなく、傾いた台の上に、ぽん、と置いた。
お玉が、すべりだした。低いほうへ。
その瞬間だった。
「お玉っ!」
家じゅうが、いっせいに悲鳴をあげた。にこにこしていたミネさんが、鬼の顔で飛んできた。トキが、皿を放り出した。ごみ山ひとつ、眉も動かさず捨てていたゴウさんが、傾いた床に腹ばいになった。腕を溝につっこんで、指の先で、お玉の柄をつかむ。穴のふちの、すれすれだった。
ゴウさんは、肩で息をしながら、ぼくをにらんで、どなった。
「あぶないだろうが!」
穴は、垣根のむこうで、あいかわらず静かに口をあけている。だれも、そっちは見ていなかった。