「第17便、火星行き、3分後発。お乗り遅れなきよう」
放送が流れた瞬間、改札を抜けた。片手にトランク、もう片手にあたため途中のホットサンド。走る。
プラットホームまでは、動く歩道で1分半。間に合う。たぶん。
「もう、なんで直前に打ち合わせ入れるかなぁ」
独り言をぼやきながら、横目にホーム案内を確認する。第17便、推進剤補給完了、乗降口3B。いつも同じ場所だ。慣れた。
ホームに駆け込むと、白い巨体がそこにあった。天井すれすれまで届く、あのでかい上段。燃料の放つ蒸気が、冷えた空気に混じって足元を白く撫でていく。
「チケット、お願いしまーす」
駅員が読み取り機を突き出してくる。QRを当てる。ピ。
「はい。2B-14番ですね。お乗り換えは……」
「ゲートウェイで、ですよね」
「そう、月周回で一度降りてもらって、次の便に乗り継ぎです」
扉の前で、後ろの誰かが走ってくる足音が聞こえる。駅員が振り向く。
「あと15秒です、乗れまーす!」
駆け込んできたのは、スーツ姿の男性だった。ぜいぜい言いながら、胸ポケットからチケットを出そうとしている。駅員が片手で受け取り、片手で彼の背中を押す。
「間に合いました。どうぞ」
「ありがと……ございます……」
男は中腰で乗り込む。わたしの隣の席だった。
扉が閉まる。発射10秒前を告げる静かな音声。座席がほのかに傾き、全身を受け止めるように形を変える。
となりの男が、シートに深く沈みながら、ぽつりと言った。
「ほんっと、間に合ってよかった。次の便まで3時間あいちゃうんですよ」
「あ、お仕事ですか」
「娘の誕生日で。火星で学校の先生やってて」
へえ、とわたしは少し驚いた。
「火星の学校って、どんな感じなんですか?」
「普通ですよ。算数やって国語やって。教室の窓から地球が見えるくらいで」
なるほど、それはもう普通なのか。住んでいる人にとっては、窓の外は窓の外だ。
離昇の振動が、腹の底を軽く叩いた。発射台の塔がするすると下に消えていく。
「これ、何便目です?」
「年に4回くらい行きますよ。娘に会うのに」
「うわぁ、ベテランですね」
男は笑った。
「慣れるとこんなもんです。新幹線と同じ感覚」
ホットサンドをかじる。離昇のGで、具がちょっと奥に寄って、歯ごたえが変わる。こういう細かいところが、火星便と地下鉄の違いだ。
隣の男は、背もたれに沈みながら、薄目を開けたまま微笑んでいた。手の中でスマホをもてあそんでいる。
「……今ごろ、窓辺で寝てるでしょうね」
ひとりごとみたいな言い方だった。
「娘さん、ですか」
「ええ。日向ぼっこが大好きで。でもコロニアは日差しが弱いから、LEDの窓辺に場所作ってもらってて」
LEDの窓辺。
わたしはちょっと返事に困った。火星の教室というのは、そこまでやるものなのか。窓に天然の日差しがなくて、先生のために人工の日向を用意している。働き方改革も、ここまで来ているらしい。
「いい学校ですね」
「ね。みんな可愛がってくれるんですよ。子どもたち、すぐ膝に乗せたがるから、授業にならないらしいんですけど」
膝、に乗る。
わたしは手を止めた。ホットサンドの最後のひとかけらを、口に運ぶ前に。
男は気づいていないのか、気づいて遊んでいるのか、スマホの画面をこちらに向けてきた。待ち受けの写真だった。
ふくふくとした三毛の、おそろしく貫禄のある顔がそこにいた。首に小さなリボン。背景は見慣れない金属の棚。棚の奥の壁に、クレヨンで描いた地球の絵が貼ってある。
「これが、娘です。コロニア第三小学校の先生で、もう5年目になります」
男は、それは嬉しそうに言った。
年に4回、27時間かけて、月で乗り換えまでして会いに行く相手。
わたしは、へえ、と当たり障りのない相槌を打って、窓のほうを向いた。口の端がゆるみそうになるのを、必死でこらえた。
そのとき、スマホが小さく震えた。
「ご予約の『火星コロニア限定・青ドーナツ10箱』は、到着ゲート前のカウンターでお受け取りいただけます。受取可能時刻は、火星着後30分以内です。時間を過ぎた場合、次回便までお預かりとなります」
10箱。
会社には、出張だと言ってある。帰りの便で、同僚に配る分がちょうど10箱だ。地球では一切売っていない、あの青い、塩味のドーナツ。月経由で27時間。受け取り窓口まで30分。
男がこちらをちらりと見て、画面をのぞき込んでいた。
「……それ、おいしいらしいですね」
「あ、ええ、まあ」
「うちの娘も好きなんですよ、あれの匂いが」
わたしは、口の端をこらえるのをやめた。