宇宙は膨らんでいる。これ自体はもう常識だ。問題は「どれくらいの速さで?」に対して、宇宙が2つの答えを返してくること。しかもその食い違いは年々はっきりしてきていて、2026年4月に発表された最新の測定で、ついに「誤差のせいではない」と言い切れるレベルに到達してしまった。

宇宙の基本法則にどこか見落としがある。そんな、ちょっとゾクッとする話をしよう。

宇宙の「膨張速度」ってそもそも何だ

宇宙が膨張しているとわかったのは、1929年のエドウィン・ハッブルの観測にさかのぼる。遠くの銀河ほど速く地球から遠ざかっている。この関係を式にすると「後退速度 = H0 x 距離」となる。H0が「ハッブル定数」と呼ばれるやつだ。

このH0の値がわかれば、宇宙の年齢も、大きさも、未来の姿も計算できる。宇宙論にとっての基本中の基本。だから天文学者たちはこの数字を正確に測ることに、もう100年近く情熱を注いできた。

ところが、だ。この「たったひとつの数字」を測る方法が2通りあって、それぞれが違う値を出す。差はたった8%ほどなのだけど、どちらの測定精度も高すぎて、「まあ誤差の範囲でしょ」と笑って済ませられなくなってきた。これが「ハッブルテンション(Hubble Tension)」と呼ばれる、いま宇宙物理学で最もアツい問題だ。

ハッブルの法則と2つの測定値の食い違い

方法その1:宇宙の「赤ちゃん写真」から推測する

ひとつ目のアプローチは、宇宙がまだ生まれたばかりの頃の光を使う方法。宇宙は誕生から約38万年後に、初めて光が直進できるようになった。そのときの光が宇宙マイクロ波背景放射(CMB)として、いまも全方向から地球に届いている。いわば宇宙の「赤ちゃん写真」だ。

ESAのプランク衛星がこのCMBを超高精度で観測し、そのデータに標準的な宇宙論モデル(LCDM)を当てはめると、H0は約67.4 km/s/Mpcと出る。1メガパーセク(約326万光年)離れた銀河は、毎秒67.4 kmの速さで遠ざかっている計算だ。

この方法のキモは「初期宇宙の状態がわかっているなら、そこから今日までの膨張の歴史をシミュレーションして、現在の膨張速度を逆算できる」という発想にある。初期条件から未来を予測する、物理学の王道パターンだ。

方法その2:「距離のはしご」で直接測る

もうひとつは、宇宙の中にある天体を「距離の目印」として使い、実際の距離と後退速度を測って直接H0を割り出す方法。こちらのほうが直感的でわかりやすい。

ただし宇宙の距離を正確に測るのは恐ろしく難しい。地球からの距離がわかっている天体を足がかりに、段階的にもっと遠くの天体の距離を求めていく。この積み上げを「距離のはしご(cosmic distance ladder)」と呼ぶ。

距離のはしご:4つのステップ

はしごの「段」はざっくり4つ。まず地球の公転軌道の両端から星を見て、わずかな角度のずれ(年周視差)で近い星までの距離を測る。次に、明るさが規則正しく変わるセファイド変光星を使って、もう少し遠くへ。さらにIa型超新星(白色矮星が爆発するやつ)を「標準光源」にして、銀河スケールの距離を測る。最後に、赤方偏移から膨張速度を読み取る。

こうして得られるH0は約73.5 km/s/Mpc。CMBから逆算した67.4より、約9%も大きい。

2026年4月:ついに「誤差じゃない」と断言された

2026年4月10日、H0 Distance Network(H0DN)コラボレーションが『Astronomy & Astrophysics』誌に衝撃的な論文を発表した。セファイド変光星、赤色巨星の先端光度、Ia型超新星など複数の手法を統合し、互いの結果をクロスチェックした大規模解析。結果は73.50 +/- 0.81 km/s/Mpc。精度1%を切った。

この精度が何を意味するかというと、CMBから得られる67.4との差が、統計的な揺らぎで説明できる確率がほぼゼロになったということだ。5シグマ(偶然で起きる確率が約350万分の1)を超える水準。素粒子物理学で「発見」と認定されるのと同じ基準だ。

つまり、どちらかの測定が間違っている可能性はほぼ消えた。残るのは「宇宙の仕組みについて、人類がまだ何か見落としている」という結論だけだ。

2つの測定アプローチの全体像

じゃあ何が足りないのか? 3つの仮説

見落としの候補は、ざっくり3つある。

1. ダークエネルギーが「定数」ではない説

標準モデルではダークエネルギーの強さは宇宙の歴史を通じて一定とされている。でも、もし時代によって強さが変わるなら、膨張の歴史が変わり、CMBからの予測値もずれる。「宇宙定数」と名付けたものが実は定数じゃなかった、というオチはちょっと皮肉が効いている。

2. 未知の粒子が初期宇宙にいた説

ビッグバン直後にまだ発見されていない軽い粒子が飛び回っていたとすると、宇宙の膨張パターンが微妙に変わる。この「暗い放射」がCMBの解釈をずらしている可能性がある。ニュートリノの仲間がまだ隠れているかもしれない、という話だ。

3. 重力の法則自体がちょっと違う説

アインシュタインの一般相対性理論は100年以上テストに耐えてきた。でも宇宙スケールでは修正が必要かもしれない。銀河の回転速度の問題(ダークマターが要る理由のひとつ)とも絡んでくる壮大な話で、もし本当なら教科書の書き換えレベルだ。

どの仮説が正しいか、あるいはまったく別の答えがあるかは、まだ誰にもわからない。でも「わからないことがはっきりわかった」というのは、科学にとっては前進だ。

これからどうやって解くのか

次の一手はもう準備されている。NASAのナンシー・グレース・ローマン宇宙望遠鏡は2027年の打ち上げを予定しており、ハッブルの100倍広い視野で大量のIa型超新星やセファイド変光星を観測できる。距離のはしごの精度がさらに上がるわけだ。

ESAのユークリッド宇宙望遠鏡は、ダークエネルギーの性質を直接探るために設計された。宇宙の膨張の歴史を「時代ごと」に細かく追跡できるから、ダークエネルギーが本当に一定なのかどうかに決着をつけられるかもしれない。

重力波の観測も切り札になりうる。中性子星の合体で放たれる重力波と光を同時に観測すれば、距離のはしごとは完全に独立した第三の方法でH0を測定できる。LIGOやVirgoの感度が上がるにつれて、この「標準サイレン」の精度も上がっていく。

宇宙が教えてくれる「人類の無知」

ハッブルテンションの面白さは、「宇宙の膨張速度を測る」というシンプルな問いが、物理学の根幹を揺さぶっているところにある。たった6 km/s/Mpcの差。数字にすると地味だ。でもその背後には、ダークエネルギーの正体、未知の素粒子、重力理論の限界といった、21世紀の物理学が抱える最大の謎が全部つながっている。

正直なところ、個人的にはこういう「教科書が崩れるかもしれない瞬間」がたまらなく好きだ。宇宙は「お前たちの理解はまだ足りないぞ」と、データという形でちゃんと教えてくれる。そしてその答えを見つけたとき、たぶん人類は宇宙の成り立ちについてもう一段深い景色を見ることになる。

73.5か67.4か。どちらが正しいかではなく、なぜ食い違うのか。この問いの答えが出る頃には、宇宙論の教科書は今とはまるで違うものになっているかもしれない。