おれの家の棚には、紙コップがひとつ、六十年ぶら下がっている。底から糸がのびて、窓のすきまから、暗い空へまっすぐ出ていた。 この町では、遠い星へ行った者と話すのに、こういう糸電話をつかう。声は光にのって、何十年もかけてむこうへとどく。返事もまた、何十年もかけてもどってくるのだ。だから町の年寄りは、したり顔で言う。「返事はな、しわの手で聞くもんだよ」と。 先に言っておくが、おれはあのコップなんか、とうに忘れている。ただ、糸がほこりをかぶるのはみっともない。だから毎晩、寝る前にちらりと見る。それだけの話だ。 タエというのが、となりにいた女の子でな。字のへたな子だった。コップの底には今も、みみずののたくったような「タエ」の字が、かすれて残っている。 あいつの一家が遠い星へ移る前の日、おれたちはこの糸電話を作った。おれは、なんだかむしょうに腹が立っていた。どうやら、置いていかれるのがくやしかったのだろう。 「ねえ、また あそべる?」 タエがコップにそう言った。おれは答えなかった。かわりに、わざとつめたく聞いてやった。 「むこうで、いちばんに なにするんだよ」 そして返事も待たずに、さきにコップをふせた。おれの勝ちだ。最後にしゃべったのは、おれのほうだった。子どもというのは、つまらない意地を張る。 星の船はのぼっていって、それきりになった。おれは大人になって魚を売り、女房をもらい、いつのまにか年寄りになった。 その間ずっと、おれはしゃべる側だった。言いたいことだけ言って、さきにコップをふせる。相手の返事を待つなんて、まぬけのやることだと思っていた。 ——もっとも、そう思う男が、なぜ六十年もコップを捨てずにいたのかは、聞かないでもらいたい。 今夜、棚のコップが、じりじりと鳴りはじめた。遠い星の光にまじった、あの雑音だ。六十年ぶりだった。 おれは、しわの手でコップを取った。くせで、口にあてて「もしもし」と言いかけて——やめた。むこうから、声がしていたのだ。 小さい、女の子の声だった。あの日のままの、タエの声。 「レンちゃん。あのね、むこうに ついたら、」 じりじり。 「いちばんに、レンちゃんに でんわするからね。それが いちばん」 つめたく突きはなしたつもりの、あのばかな質問に、あいつはまっすぐ答えていた。むこうで最初にすること。それは、おれに電話をかけること。ほんとうに、いちばんにかけてきた。ただ、声がとどくのに六十年かかっただけだ。 コップの中で、じりじりは、まだ続いていた。どうやら話には、まだ先があるらしい。 おれは、六十年ずっと口にあてていたコップを、生まれてはじめて、耳にあてた。